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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

焦がれるものは

「野球わかるんか?って言われたら、当然のごとくカープの話が始まるんですね!」

広島に赴任した後輩が、驚きを語ってくれた。

プロ野球にもチームはいろいろあるし、大リーグや高校野球もある。

それでも広島で「野球」といえばカープのことだ。

なんの前置きもなく、今日の試合での若手のエラーの話が始まり、それを肴に杯を傾ける。

 

祖父も例にもれず、カープファンだった。

いや、以前に優勝した際には、会社で胴上げされたといっていたから、

その中でも、とりわけ熱烈なファンだった、ということなのかもしれない。

毎晩、ウイスキーを片手に、カープの試合を見て、

誰に見せるわけでもない、記録を取り続ける。

つまらないミスや気力のない試合などしようものなら、

「ハー!解散せぇ、解散じゃ」と罵倒する。

それを、毎日、毎日繰り返す。

健やかなる日も、病める日も。

富める日も、貧しき日も。

 

年齢的なものなのか、カープが負け続けているからなのか、

元気をなくしていた祖父のため、友人に無理を言って譲ってもらった

サインバットは、当時のスター・緒方選手のものだった。

 

その緒方選手もとうに引退して、監督になって。

黒田選手や新井選手は一度出て行って、戻ってきた。

球場もボールパークへと建て替わった。

10年も前に亡くなった祖父が知っているチームとは、

ずいぶんとメンバーがかわってしまったけれど、

生きていたら、間違いなく、その瞬間を見届け、喜びを爆発させていただろう。

東京ドームで、本通りで喜びを爆発させていたファンの姿に、

「解散せい」と言いながら、チームを愛し続けた祖父の姿を重ねてしまった。

 

広島中がコイ焦がれたチームに、待ち焦がれた瞬間が訪れたことを

心からお祝いしたい。

 

 

そして、CSには我がチームも出ることを、

そしてよい勝負をすることを祈っています。

 

 

 

 

 

1円拾わなかった話

チリン

 

朝の混雑した駅のホームから、エスカレーターに乗り込む。

と、同時に時間を確認しようと、ポケットのスマホに手をやったときのことだった。

指に残るかすかな感触。軽い音。

1円玉だ。

昨日、売店で貰ったおつりが残っていたのだろう。

 

ふと思い出す。

1円玉を見つけた時には、すでに1円分以上のエネルギーを使っているという話を。

探して拾うことを考えたら収支は赤字だろう。

ただでさえ混雑しているエスカレーターの乗り込み口。迷惑にもなる。

さらに言えば遅刻しそうだ。

言い訳を探しながら、体はどんどんと上昇していく。

どうだ、もう拾えない。

 

「落としましたよ」

と、後方から若い女性の声がする。

わざわざ他人が落とした1円玉を拾ってくれるなんて、天使のような人だ。

ちょっとした罪悪感を追い出すことに努めていた私は、振り返ることもできなかった。

「あ、す、すいません」

言葉を絞り出しても、そんなもの。

たいした感謝の言葉も言えない、都会の人になってしまったか。

1円玉を財布にしまい込みながら、そんなことを考えていると、

もう降り口に差し掛かる。

 

道すがら、1円分の後悔と自責がグルグルと頭をめぐる。

そうして1銭にもならない駄文を書き散らすのだった。

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ポケモンをやらない人のための本当のPokémon GO問題

Pokémon GO(ポケモン ゴー)*1が大ブームです。

それに伴って、様々なトラブルが報じられ、各所から、規制の声が上がっているようです。

一方で、報道などを見ると、やや正確な理解に欠けている部分もあるようです。

みんながポケモンをやるわけでもないですし、やる必要もありません。

しかし、ポケモンの規制の話は、ポケモンだけにとどまる問題ではありません。

これからの世界に生かしていく議論をするために、ポケモンのシステムと問題点をまとめてみたいと思います。*2

 

長くなったので、簡単にまとめると。

1.施設内でポケモンを出なくする措置はあまり意味ないかも?

2.爆発的人気で人が多かったのが問題の核心だけど、これから減るからそこは勘案できそう。ただ、今後のために考える必要もあるかも。

3.空間に情報を付与することは今に始まったことではない。けれど、実際の場所とのリンクが強いことや大勢の人がのっかるプラットフォームになっていることを踏まえた議論が必要?

4.いまポケモンに向けられている議論はこれから生まれるかもしれない未来の表現や技術にかかわること。

5.マナーを守って楽しく遊び、そして、学びましょう。

 

0.何をするゲームか

ポケモンを捕まえるゲームです。

と、書くと一行で終わってしまうことが、かえって誤解を招いているのかもしれません。イメージでいえば虫取りです。地図上に仮想的に置かれたポケモンを探して歩き回り、捕まえる。そして、育てて、戦わせる。それが基本になります。

 

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上のマップ画面を見てください(個人情報のため一部を加工しています)。

自分が歩き回るとキャラクターも画面を動きます。

そこかしこに立っている棒のようなものがポケストップという拠点で、近づいてタップするとアイテム(ポケモンを捕まえるのに必要)が獲得できます。

また、地図上にいるポケモンをタップすると、右のような画面に遷移して、ポケモンを捕まえるという局面に移るわけです(ゲット画面、といいましょう)。画面に表示されている場所に飛びついて捕まえるわけではありません。画面上でボールを投げるだけです。

ここで、重要なポイントが二つあります。

①地図上のデータはゲームの開発元が以前から提供しているIngressというゲームでのデータを利用しているということ*3

②ポケストップもポケモンも半径約40mに入ってくれば、タップできる(表示される。そこまで行く必要はない)。

ということです。

1.人はなぜさまよい歩くのかー危険な場所に入るの?

原発にもポケモンが出た!

高速道路に迷い込んだ人がいて危ない!

海外じゃ地雷原にまで入り込んだ奴がいるらしいぞ。

 

なぜ人はそんなにさまよい歩くのでしょう。

わかりません。

ポケモンは一定のアルゴリズム(場所、時間帯、天気など)に従って、地図上に出現するといわれています。そして、その近くに行くと地図上に表示されるわけです。近くまで行かないと地図上に表示されませんので、どこかにないかと歩き回って探すことになります。宝探しゲームみたいなものですね。

さて、出現する場所については、以下のような推測があります。

①ポケストップの近くはでやすい

②人通りの多い場所はでやすい*4

ポケモンの巣

1-2については、確率の話ですので、言ってしまえばどこにでも出現する可能性があります。

問題は3です。ある特定の場所には、特定の希少なポケモンが出現しやすいといわれています*5。こういう場所にはその種類がほしい人は行きたくなるわけですね。例えば、ピカチュウがほしいから新宿御苑に行こう、みたいに。

 

逆に言えば、出るかもしれないし、出ないかもしれない、という場所にはとりたててその場所に行くようなインセンティブはないわけです(だからあえて、原発とかに入っていく意味はないんじゃないかな、と思います。ネタ作りや熱中しすぎて気づかず入る以外には)。

 

それから、GPSで平面上に置かれるだけですので、プレーヤーが地下にいても、地上にいても、高架の上にいても、関係はありません。ホームの端っこにポケモンが表示されている画面を見せて、危ないと書いている方がいましたが、ゲット画面上そこにいるように表示されているだけで、マップのどこに表示されていたかとは関係ありませんし、ましてホームの端っこに行く必要もありません。

ここまで、書くとわかっていただけると思います。

 

ある一定の場所でポケモンを出現しなくする、ということにはあまり意味がないのではないかと考えられます。例えば、駅の場合を考えて見ましょう。

 

駅にいるポケモンをとるために、外から駅や線路に入るケースは考えられません。地図上に表示されていれば、その時点でもう捕まえられるのですから。*6

次に、仮に構内に出現しなくなったとしましょう。しかし、駅周辺には出現する可能性があります。プレーヤーが駅の中にいても、駅の外に配置されたポケモンの40m以内に近づけば、捕まえることができます。つまり、構内でのプレーを制限することには必ずしも有効ではありません。

では、ポケモンが出現しない範囲を広げたら?しかし、周辺にはポケモンを誘客に使おうとしている施設があるかもしれません。駅の隣に、マック*7がある光景、ありますよね?地下鉄の駅や線路の上にある施設はどうなるでしょうか。

もし制限をかけるとしたら、特定施設にいるプレーヤーはアプリが起動しなくなる、くらいのことでなければ難しいでしょう。

 

2.ほかのアプリとの違いは?

そうなってくると一つ疑問がわいてきます。

ほかのアプリとどう違うというのでしょうか。

歩きスマホの問題は、今までもずっと指摘されてきたことです。毎日、駅でもアナウンスされていました(そういえばここ数日聞いていないような…いずれにしても歩きながらの操作は危険ですのでやめましょう)。*8

今日も、ほかのゲームをやりながらホームを歩いているお姉さんをみかけました。

では、そうしたゲームにもすべてそうした措置を求めるべき?

では、地図アプリは?画面の時計を見るのは?

一つには、やる人が多すぎた、というのが大きな違いだと思います。

リリース当初は大加熱でした。近くの公園でもみんなやってました。

そりゃあんだけ人が来れば、そして話題になれば、なにがしか対策を考えたくなるのもわかります。当然ですが、ゴミは持ち帰るべきですし、時間帯によっては周辺環境への配慮も必要でしょう。(飽き始めている人も多い様子。その点は今後の推移を見守る必要もあるかな、と思います)

一方で、今後もこのように多数の参加者を集める仮想現実などのソフトウェアはあり得ますから考えることには意味があります。

もう一つ、大きな特徴として、位置情報を使って、タグ付けをしている、という点があります。

 

3.場所に情報を付与することは新しいか

ポケモンゴーは、拡張現実(AR:Augmented Reality)の新しい法的問題の地平を開拓した、なんて捉えられ方もしています*9

その中心になるのが、Virtual location rights(仮想的な位置の権利)です。

つまり、自分のおうちなり、お店なりのある場所に勝手に情報を付与していいの?ということです。

自分の家がポケストップになって便利だという人もいるかもしれませんが、毎日人が大勢集まってたら少しいやかもしれません。

あまり、ゲームがそぐわない場所*10に重要な場所としての意味が付与されてしまうかもしれません。

そうした場合には、開発元は削除申請を受け付けているようです。

しかし、こうした場所に対する情報のタグ付けも珍しいものとは言えないかもしれません。(そもそもポケストップとなっている多くの場所はIngressのプレーヤーがゲーム内の拠点として申請し、日夜遊んでいる場所です。*11

また、それ以前にも、フィクションの情報がある場所に付与されて人が集まること、はありました。古くは、神話の世界の話になるかもしれません。

最近では、漫画などのモデルとなった場所に観光客が多く訪れるという現象もあります*12

AR的な見せ方という意味では、今は亡き「セカイカメラ*13が先駆的でした。

また、実際に、地図やカメラを使って表示をしなかったとしても、例えば「食べログ」のような形で、一定の「情報」が付与されることもあるわけです。

ポケモンゴーもある意味ではこうした系譜に属していると考えることもできます。*14こうした情報は、付与された場所の側から変更することが可能であるとは限りません*15

そしてこうした行為は、少し大げさな言い方をすれば、世界への意味付けを変える「表現」でもあります。Ingressの標語は「The world around you is not what it seems.」(あなたの周りの世界は、見たままのものとは限らない)というものですけれども、世界の見え方はいろいろあるのです。そして、そのことは生を豊かにするものだと私は思っています。

 そうした表現の問題と、実際の施設の管理の問題との兼ね合いは、これから考えらえるべき大きなイシューだと感じています。

開発元であるNianticは、Ingress、ポケモンゴーと、位置情報ゲームの大きなプラットフォームを2つ占有していることになります。彼らは、これまでのインターネットにおけるプラットフォーマーと同じような意味で、「ゲートキーパー」でありうるわけで、その点をどう考えるか(すべてをゆだねてよいのか。人を集めたい施設と集めたくない施設が併存する場所についてどう扱わせるのが適当か*16表現の自由との兼ね合いは。)というのも論点となるかもしれません*17

 

 おわりに

 開発元の代表者ジョン・ハンケ氏は、ポケモンの基盤となったIngressについても、ポケモンについても、人が外に出て歩くことの助けとなってほしい、と言っています。そして、それが世界をよくするのだ、とも*18

それは、一つの事実をついていると思います。私も、家族らからなんでそのつまらなそうなゲームをと言われながらIngressをやっていましたが、拠点をめぐるうち、自分の住んでいる町や行く先々の新しい側面を知ることができました(普段気づかないような場所にもタグがあるから)。

海外の図書館などでも活用する試みがあるようです。*19

もちろん、解決していくべき問題も、考えるべき事柄も多くあるでしょう。

できれば、その考えが、新しい世界の見方につながっているものであるように祈っています。

 

*1:『Pokémon GO』公式サイト

*2:清水さんのブログはすごく愛情を感じます。元ケータイゲーム屋が思うポケモンGOとIngressのイノベーション - shi3zの長文日記

*3:田舎にはない!と言われることがありますが、それは今までIngressで申請されたものが少なかったのです…例えば鳥取や岩手には多くの拠点があります。ポケGO砂丘解放区を作った男(2016年7月27日(水)掲載) - Yahoo!ニュース ; ポケモンGO岩手県盛岡市ポケストップの数が多い?トレーナーも多い | ふと雑記ブログ

*4:1-2については、正確にはIngressでXMと呼ばれるエネルギーの粒が表示されているところに多く出る、というものです。ポケストップと重なるIngress上の拠点である「ポータル」からはXMが出ますし、それ以外の場所にある「野良XM」はAndroid端末が一定時間停滞した場所に沸くといわれています。■道端に湧くXM(通称:野良XM) 人の多い所(おそらくAndroid端末が一定... : 【検証解説】ポケGOプレイヤー必須知識“XM” 海外勢が明かしたポケモン頻出ポイ... - NAVER まとめ

*5:【ポケモンGO攻略】トレーナーがこぞって集う“ポケモンの巣”ってナンだ!? [ファミ通App]

*6:実際にいるではないか、と言われるかもしれませんが、そういう方々はそもそも熱中しすぎて非合理な行動(不法侵入)をとっているわけです。出なくする措置、をとっただけで入らなくなるでしょうか

*7:マクドナルド。ゲーム開発元と契約を結びマクドナルドはゲーム中で拠点となっている。

*8:歩きスマホは違法にするべきか - 読書は人間の夢を見るか

*9:Pokémon Go and the law of augmented reality – TechnoLlama ; Pokémon Go has revealed a new battleground for virtual privacy

*10:海外ではホロコースト記念館や9/11のモニュメント。日本では平和公園などがあげられるでしょうか

*11:しかし、Ingress界にはマナーが形成されている部分があって、そうしたものがないうちに一気に広がったのはポケモンの不幸といえるかもしれません。【MMMMORPG】Ingress攻略(Wiki風味)【大規模社会実験】: ■プレイのお約束 これは一部。

*12:『スラムダンク』の聖地!江ノ電・鎌倉高校前踏切は台湾人に大人気の撮影スポット | 神奈川県 | トラベルjp<たびねす>; らきすたの舞台となった鷲宮神社はコンテンツツーリズム(「聖地巡礼」)の関係で有名。 久喜市商工会鷲宮支所(旧鷲宮商工会)ホームページ

*13:立ちどまるよふりむくよ:「セカイの終わり」とPokemon GO コノ、オオゾラニ、エアタグヲ (1/5) - ITmedia ニュース

*14:違う点といえば、やはり利用者の数とリンク感の強さでしょう。

*15:もしかしたらそうした仕組みが必要なのかもしれませんが

*16:申請があればすべて消す主義であれば、前者に不利に。そうでなければ、恣意的な選択が可能に、など。

*17:オンライン上のゲートキーピングの歴史(1) : HUSCAP ; 成原慧『表現の自由アーキテクチャ勁草書房, 2016などを参照

*18:Ingressの核心は「世界をよくするためには外に出ること」--川島優志氏インタビュー(前編) - (page 2) - CNET Japan

*19:米国での、ゲーム“Pokémon GO”と図書館(記事紹介) | カレントアウェアネス・ポータル; 越山乃風 on Twitter: "市の審議会で「図書館がポケストップになってるので、図書館に市内のポケストップとその史跡解説を記載した地図を作って貼りだすべきだ」と言ったら笑われた。

会長職の准教授が「いや、笑いごとじゃなくて」とフォローしてくれたのが救いだった。
https://t.co/mutBDuVKBr"

歩きスマホは違法にするべきか

Should using your mobile phone while walking be outlawed?

Mark Giancaspro, University of Adelaide

※本稿は、The Conversationに掲載された"Should using your mobile phone while walking be outlawed?"の全訳です。著者であるMark Giancaspro氏の許可を得て翻訳しました。*1

 

携帯電話は、私たちの生活に与える恩恵の一方で、公共の安全に対する真の脅威―路上での使用や電磁波とは別に―ともなります。

今日では、多くの携帯電話ユーザーが、歩きながら携帯電話でメールを打ち、あるいは、その他の機能を熱心に使用しています。これは公共の場所でよくみられる光景です―特に道路横断の時には。

オーストラリアでは、3人に1人もの歩行者が、道路横断の際に携帯電話を使用しています。ニューサウスウェールズヴィクトリア における死傷した注意散漫な歩行者の増加に関する最近の報告では、歩きながら携帯電話を使用することを明示的に違法とすることが呼びかけられています。

何が問題か?

米ウェスタンワシントン大学の研究者による2010年の研究で、携帯電話を使用する歩行者は

…そのほかの歩行者と比して、歩行速度が遅く、方向を頻繁に変え、他の人々に気づきにくい

ということが分かっています。

このことは、彼らをより大きな事故のリスクにさらすことになります。

そうした行動はまた、状況認識を低下させ、「不注意による盲目」(新しい特徴的な刺激に気づくことができないこと)を引き起こすことが示されました。研究の被験者は、歩いているいつもの道に一輪車に載ったピエロがいることに気付けませんでした。

更に最近の研究はこのように結論付けています。

歩行者の振る舞いは、注意のプロセス、視覚的及び聴覚的な知覚のプロセス、情報処理、判断そして動作の開始という認知スキルの複雑な組み合わせを要求するものである。

歩いているときに携帯電話を使うことは、これらすべてのスキルを危うくするのです。

オーストラリアの路上で命を落とす人のうち7人に1人が歩行者です。昨年には、165人の歩行者がオーストラリアの道で命を落としました。毎年、約3,500人が重傷を負っています。

歩行者の事故がオーストラリア社会に課す経済的コストは、10億オーストラリアドルを超えます。これは、当事者と家族の感情的な負担を計算に入れたものですらありません。歩行者が関わるほとんどの自動車事故はほとんどが歩行者の不注意から生じているという証拠もあります。

法律はどう述べるのか?

オーストラリアの管轄する区域においては、携帯電話を使用する歩行者を特にターゲットにした法令はありません。しかしながら、このような振る舞いは、信号無視の横断といった他の規定への違反によってとらえられるかもしれません。

例えば、 南オーストラリアでは、人は

…十分な注意をせず*2、又は道路を使用する他者に対する合理的な配慮を行わずに歩行してはならない。

他の州にも似たような法律があります。

オーストラリア道路法第14編は、オーストラリア各州及び準州における道路利用のルールの基礎を形作っており、電話の利用しているところが見つかった歩行者に適用される可能性のある違反の範囲について規定しています。

例えば、歩行者用信号が赤の時に道路を横断することは、不注意な人がよくおかす違反です。しかしながら、それは警察にとっては物理的に扱いにくいものであり、それゆえめったに執行されることはありません。

諸外国の経験からは、歩行者の携帯電話の使用を違法にすることは、法律を成立させるほどには単純ではない、ということが示唆されます。この振る舞いを犯罪とすることは、見たところ、立法者、法執行機関そして公衆を分断してしまうように思われます。

米国の5州アーカンソーイリノイネバダニュージャージー、ニューヨーク)は、みな、特に携帯電話を使用する歩行者を違法とする法令を導入しようと試みましたが、失敗に終わりました。もっと最近では、ハワイ州が携帯電話又はその他の電子的機器を持って通りを横断した者に250ドルの罰金を課すことができるとする法案を提出 しました。

他の例では、政府は携帯電話の使用を特定の場所に制限することによっています。中国ベルギー の街では、不注意な歩行者が害を与えないように携帯電話を使用する人々のための歩行レーンが備え付けられています。

しかしながら、こうした方法は、その悪習を間接的に容認し、歩行者の注意散漫の問題に取り組むのに失敗していると批判されるかもしません。

法改正にあたっての問題

歩行者に携帯電話の使用を禁止することは、運転中に携帯電話の使用を禁止することの自然な拡張のように見えます。データは語ります:歩きスマホをする歩行者は彼ら自身と公共に対する深刻な脅威である、と。

しかし、この悪習を犯罪化することは、基本的人権に対する重大な侵害であるでしょう。運転者が集中すべきであるということ、そして、スピードを出して運転しているときにその手ですべきことを決めることは、公共の場所にいる歩行者に同じことを課すこととは全く別ものです。

そして、どこに線を引くのでしょうか。電話を手に持っていること?使っていること?ちらっと電話の時間を見ることは、腕時計で時間を確認することと類似していますし、同じように無害であるように思われます。

しかし、電話をかけること、SMSやメールを送ること、ソーシャルメディアや他のウェブサイトにアクセスすること、文書を読むこと、そしてそれらに類似するものは集中と注意を必要とします。これらは二つとも、安全に道路を渡る際には、周りの状況を見て、潜在的なリスクを測り、道路をわたるというそれだけに用いられるべきです。

いくつかの研究では、携帯電話依存症が、現実的な事柄としてみなされています。私たちのスマートフォンへの過度の依存は、それを便利な道具から私たちの幸福に脅威を与える者へと変えてしまうのです。

おそらく、法的な介入は、この技術に対する文化的な強迫観念に取り組むための第一歩であり、歩行者に対し、電話、SMS、メールをしないことは死ぬよりも価値のあることだと悟らせるものになるかもしれません。


This piece has been corrected since publication.

The Conversation

Mark Giancaspro, Lecturer in Law, University of Adelaide

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.

*1:翻訳の誤りは訳者に帰しますが、本文中の意見にわたる部分を支持するものではありません

*2:原文はwithout due care or attention

主観のマンションー森達也『FAKE』における八五郎

「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」

落語「粗忽長屋」のオチだ。

粗忽長屋」というのは粗忽もの*1二人が、行き倒れを自分だと勘違いして…という話。

普通に考えれば、ありえないこんがらがったような話だ。

人間国宝となった五代目柳家小さん氏も、粗忽ものを扱った落語の中でも難しい話である旨をマクラで語っている*2

 

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(「粗忽長屋」の舞台は浅草寺近く)

 

立川談志氏は、落語「粗忽長屋」を「主観長屋」として改作したという。

曰く「あまりに主観が強いと、人間の生死までも判らなくなってしまうというという、物凄いテーマを持った落語」*3ということである。

 

森達也監督の『FAKE』*4を見終えて、ふとこのオチが頭に浮かんだ。

 

『FAKE』は、「現代のベートーベン」「全聾の作曲家」などとして売り出しながら、実際には作曲の多くを他者に委託していたこと、全聾ではなかったことなどが発覚し、2014年大きな騒動となった佐村河内守氏とその家族をとったドキュメンタリー映画だ。

私は、佐村河内氏には、大した興味はなく、騒動になるまで佐村 河内守(さむら かわちのかみ)だと思っていたくらいで、かの森達也作品とはいえ、楽しめるかどうか不安に思いながら映画館に向かった。

 

杞憂だった。

夫妻と猫の佐村河内夫妻に、森監督、そして、マスメディアの面々。

メディア批評にも、メディア批評批評にも見えるやり取り。

佐村河内氏の「人間的な」、あるいは「被害者としての」側面。

そして時に見せるコミカルな姿。

ほとんどがマンションの中で撮られているにもかかわらず、飽きを感じさせない。

 

しかし、次第にモヤモヤとしたものが頭をもたげてくる。

「弱弱しい一個人(家族)に対するメディアスクラム」、あくまで攻撃的なライター。裏切ったゴースト。そして「証明」。

わかりやす過ぎるほどにわかりやすいストーリーが展開されているにも関わらず、抜き取れないトゲが挟まっているような感覚。

そこに現れるのが、ラストシーンである。

いったん収束しかけた物語が、これまでの場面場面に仕掛けられた違和を回収しながら、散じていく。

 

森監督は、ドキュメンタリーは「主観」だ、ということをたびたび主張してきた。

対象に干渉し、見せるべきものを見せる。

ちょうど10年ほど前に作られた「ドキュメンタリーは嘘をつく」(テレビ東京)でもそのことが鮮やかに示された。*5

 

『FAKE』で描かれたのは、佐村河内ファミリーの「主観の王国」である*6

描いたのは森監督の「主観」である。

しかし、その「主観」はまた、見る者の主観へと開かれている(同調への「圧力」を伴うものではあっても。)。

「観てるのは確かに「主観」なんだが、それを「観てる」というのは一体…」

 

 

 

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どこにもないけど、誰にでもあるもの-『東大駒場寮物語』を読んで

立て看板に、ペンキ、スプレー缶や模造紙。

いつからあるのかわからないような私物のジャージ。

落書きで埋め尽くされたロッカーはもとより、ボロボロになったソファーの上にまで、所狭しと置かれた物の中、購買部で買った弁当のニオイが立ち込める。

ゴキブリがでた時には、手近にあったオレンジ色のカラースプレーを書けてみた。

オレンジのゴキブリが逃げていった。

何をそんなに一生懸命になっていたのか、あるいは、何がそんなに一生懸命にさせていたのかはわからないけれど、「他のどこにもない特別な時間」を過ごしたという実感があった。

しかし、その場所も今はない。

母校の校舎は、創立100周年を迎えて建て替えられた。

当然、狭苦しくて、汚くて、夏には地獄のように暑かった、あの生徒会室はもうないわけだ。

思えば、私が入り浸っている場所は、いつもゴチャゴチャとした吹き溜まりのようなところだ。

大学時代によくいた部屋もゴチャゴチャと汚かった(あるとき、掃除をしていたら全共闘時代の遺物と思しきガリ版刷りのビラが出てきた)。

いや、何も汚いことは良いことだ、と正当化したいわけではない。

私が汚いところにいて落ち着くのはもっぱら生育環境のせいだろう。

 

東大駒場寮物語

東大駒場寮物語

 

 こんなことを思い出したのも、この本を読んだからだ。

私が入学した頃には、既に駒場寮はなかった。

確か、1学期の終わりごろには、新しい食堂がオープンしていたように思うけれど、東大にさしたる関心もなかった私は、そこにあるモニュメントの意味すらもしらなかった。

そこには、かつて「駒場寮」があったのだ。

「渋谷から歩いて15分で行けるスラム」と称され、多くの学生(とたまにそうでない人)が自治と自由の中で暮らした。

筆者は、元駒場寮委員長。

豊富な資料と実体験から語られる、明治大正の昔から、筆者も参加した存続運動、そして廃寮に至るまで、駒場寮とそこに暮らした人々の「青春」の物語は、その場に漂う空気をも感じさせる。

 

「ここでしかあり得なかった経験」が、実は他の多くの場所で、多くの人に存在するのだと気づいたのはいつごろだっただろうか。

筆者やその周囲の人々の行動に、少なからぬ共感を覚えるのは、私が同じ場所に通っていたから、というような理由ではない。

それはきった、全く別の場所で起きていた「私」の出来事を追体験させてくれるからだろう。

 

 

昨年のホームカミングデーの日。

現役の学生たちとの交流もそこそこに、学生時代から通い慣れた店の三階に上がり込んだ。

ボツボツと人が集まり、賑やかになってきた頃、下から上がってくる人影が見えた。

日中に、駒場寮のイベントで見かけた少年だった。

「ああ、やっぱり」

昼間一緒にいた後輩と顔を見合わせ、また、盃を傾けた。

 

鉛筆書きのメディア論

思考の痕跡

「鉛筆だってIT(Information Technology)なんだから」

大学2年生の講義で聞いた言葉が、いまでも頭の根っこを支配している。

ITというと、パソコンやスマホ、最先端のデジタル機器を思い浮かべてしまうけれど、実際には鉛筆やノートだってInformationのためのTechnologyであることには違いない。

だから、最新のIT機器について、などと聞かれると、ひねくれた自分は、最新型のシャープペンシルの話でもしようかと思ってしまう。

 

再び、この言葉が頭に浮かんだのは、小田嶋隆さんのライティング講座に行ってきたからだ。

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文筆を生業にしてきた私の父は、ここ20年ほどの間、PCを使って原稿を書いてきた。

1993年に初めてPCを買った父は『電撃編集作戦』という本の中で、こう語っている。

思うにペンを握る指先と文章をひねり出す頭脳は間接ではなく直接に結びついている。あらゆる手作業というものは、アタマではなくカラダで覚えるものだ、と言われるように使い慣れた編集の道具も簡単に換えるわけにはいかない。

神足裕司『電撃編集作戦』アスペクト, 1996, p.12.

予備校時代に、文章を書き始め、以来十数年にわたって原稿用紙の升目を埋め続けた。

私たちは、考えたことを書き留めているのではなく、書くことによって考えているという側面が間違いなく存在する。考える、そして、書く、と言う作業にとって、そこに介在する道具は、クリティカルなものだ。

キーボードを伝って、画面に表示される文章は「デジタル」だ。

デジタルの語源である「指」そのものを使って、「二値的」に打ち込まれ、そして、あとから容易に、そして、いくらでも書き直し、書き加えることができる。

「アナログ」の語源である比例のグラフを思わせる、いや父の場合はテルアビブかバグダードあたりのミミズが這いまわったような線だけれども、鉛筆の痕跡は容易に変更することはできない。

それゆえ、書き始める前に、人は苦悩し、大枠の構想を定めておく必要がある。

ティーショットをどこに打ち、どこからアプローチするのか、グリーンのどこから決めていくのか、アタマで描く。そしてまた、フェアウエーを外したような時が腕の見せ所でもある。

あるいは、詰み上がりをアタマに描きながら、頭のなかで駒を動かす詰将棋のように。

私も、別に作文で何かしようと思っていたわけでもないけれど、父の友人に随分と原稿用紙の使い方を仕込まれた。原稿用紙に書くことは殆ど無いけれど、今その教えを噛みしめる。

 

PCの登場によって、モノの書き方が変わったことには、小田嶋先生も、内田樹さんとの対談で触れている。

「書き出しなんて考えずにとりあえず書けばいいんだよ、と本書で書きましたが、それはワープロ時代の書き方ですね」*1

 

で、その小田嶋先生から頂いた質問に、病気をする前と後の文体の違いがなぜ生まれるのかについて、というものがあったのだ。

先生の適切な表現を借りるならば「逡巡や空回りを含んだ遊びのある文章」から「短刀のような切れ味と豊かな余白」が感じられる文章へ。

その変化はなぜ起きているのか。

 

考えることが難しくなっていること、思い描いた構想と違う方向に行ってしまうこと。それを防ぐために短く切り詰めた文章を書いていること。

父はそんな説明をしていたけれど、いつも横で見ている私のアタマには、違う理由が浮かんだのだ。

 

父は今、病気をして、両手を自由に動かせなくなって、再び、原稿用紙へと回帰している。

これが、キーボードを通じた文章と、鉛筆書きの文章の違いなのだ、と言ったらば、言い過ぎだろうか。

 

小田嶋先生は、文体は身体的な条件に依存する「歩き方」や(野球の)「フォーム」のようなものだという。

メディアは身体の延長。

裸足なのか、スニーカーなのか、はたまたハイヒールなのか。

当然歩き方は変わってくる。

時には、紙の上に鉛筆を這わせてみれば、違う発想が生まれるのかもしれない。

 

 

 

 

電撃編集作戦 (EYE‐COM BOOKS)

電撃編集作戦 (EYE‐COM BOOKS)

 

 

小田嶋隆のコラム道

小田嶋隆のコラム道

 

 

*1:小田嶋隆小田嶋隆のコラム道』ミシマ社, 2012, p.237. なお『電撃編集作戦』でも、「最初の一行」に触れられている。これはまたの機会に。