読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

学問←→科学

朝生を見に行ってきました。
田原さんのファシリテーションは(ファシリテーションといっていいのか謎ですが)功罪ありつつもうまくまわしているものだと感心しました。


さて、隣に座っていたセンパイガタが
「政治学は学問じゃない」
「いや、規範っぽいのと、科学っぽいのがある」
という話をしていたのですが・・・
そもそも、科学って何なんでしょう。
科学哲学の先生が、学問と科学は違うことを前提に話していたことを思い出します。(哲学は科学ではない)


こういうことを考えると、フロイトラカンという精神分析の「科学」について考えが及んでしまいます。


北田先生のおすすめでもある

を読みました(上巻だけですが)


まず、全体として、メディア史の本としては、(ほぼ)前提なく読んでいけて、それなりに意義深いと感じました。
なにせ、初学に近いですから、すべてが新鮮です。
メディア史というものが(歴史を学ぶことはメディアに限りませんが)メディアのひいては人間の可能態を探るものである以上はその時点で非常に意義深いものであるといえるでしょう。


しかし、この本の目的はここにとどまるものではありません。
ラカン的な構造分析や、現代思想といわれるようなものを用いて、書字システムからニューメディア(グラモフォン・フィルム・タイプライター)のシステムへの転換によって、人間の精神が変化していく様を追っています。


僕はラカンアレルギーです。意味がわかりません。
よって、この本の導入もいまいちです。
というか、なんでみんな「精神」だの「心理」だのにこだわっているのかが理解できません。
そこに「人間」がいるのだとでも思っているのでしょうか。
突拍子もないことを言ってしまえば、「精神」などというものの存在は必然(自明)ではありません。今思い描いている、とされているものそのものが「世界」そのものであるということも十分に考えられるからです。(荘子の「胡蝶の夢」の逆転ですね)


「精神」にこだわるのは「人間」の延命処置のように思われます。
仲正正樹は書きます。「宇宙の創造主であると共に管理者である「神」を放逐してしまった近代思想は、「人間」自身を、自分自身と世界の主人(=主体)の位置へと押し上げた。(中略)「神」を殺してしまった「私たち」はけっきょく、自分自身をも殺すことになった」(仲正『思想の死相』双風舎
たしかに、精神分析は、人間の「主体」性を奪いましたが、現在わざわざ持ち出すのは精神に人間を見ているのではないかと疑ってしまうのです。


ただし、キットラーの使う分析は精神分析や構造分析によって人間の主体性を解体していきます。エジソンの耳か悪かったことが、グラモフォンの発明へとつながっていくということも、その一例だろう。


レコードの針がエクリチュールの「痕跡」だ。というような、少し無理があるんじゃないかという頓知のような話が続くが、それがすべて体系になっていて、だんだんごまかされていくという恐ろしい書でもある。(藁


科学、が自らを精緻で巨大な体系の中に矛盾なく位置づけていくことで、同時にその体系をほんのすこし変形させていくものであれば、この本はそのよいお手本でもあろう(皮肉でもあり、そうでもない意味でも)。


文体が混在してしまったことに深くお詫びを申し上げつつ、
意味がわからなかったことを棚に上げつつ偉そうに言ったことは内緒にしてこの文章を締めたい。