読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

自由

俺は自由だろうか
俺は自由だろうか
俺は自由だろうか
俺は日に3度そう確認する。
などということはないが、たまにそう考えることならばある。


僕は自由であることが好きだ。
責任、とか、義務、とかそういう言葉も
嫌いなわけではないがどこかかったるい。


自由に生きているだろうか。
幼稚園からお坊ちゃま私立校に通い
周りの望むがままに某国立大学に入った。
自由にしているだろうか。


周りがあわただしくなってくる中で
一人のほほんとしている。
資格を取ろうともしない
特に何かに打ち込むわけでもない。
自由にしているだろうか。


「右腕をあげてください」
あげられましたか?
あるいは、はむかってあげないこともできたでしょう。
しかし、あげて、かつ、あげないことはできない。
あなたは、あげることが(あるいはあげないことが)決まっていた
そういわれたらあなたは反論できるだろうか。
私たちは自由にしているといえるのだろうか。
あるいは、自由な意思など存在するのだろうか。


そんなレイヤーとは少し違うところの話だが
自由に関して話している人がいる。
例えば、これだ。

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)
大屋 雄裕
筑摩書房
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ゼミの課題。(まぁ何週間かあとですけど。)
先生が言うように、いろんなところに話が飛びすぎている感じがあります。僕のBlogのようですw


とりあえず、書き方は評価できる、というか・・・
感情を鼓舞するようなことを書いて、議論とは関係ないところで
うまいこと誘導しようとしている感があるという点で
まぁ、評価できるw(皮肉ではないですよw)


議論的には、バーリンの話をひいたり
排除系オブジェの話をしたり
現状認識としては、東さんの「情報自由論」とかと近いかな。
ただ、法の話がエッセンスとして加わっているのと、
話の方向性が違う(結論が違う感じ)
これは、まぁ、価値観の違いでしょう。


僕の立場を表明するならば、
慎みあるリバタリアニストとしての
リベラルですw


はっきりリベラルといえるほどには、
他者に寛容ではいられないけれど、
他者に寛容でない世界は(監視社会も含めて)
息苦しすぎる。


皆様にとってはいかがでしょう?