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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

学問の意味/メンバーシップ

どくしょ

ある日、家庭教師先でソクラテスの話をしました。
そのあと、興がのってきたのでフッサールの話をしようとしました。
(中学2年生の女の子を相手に何をしているやらw)


そしたら言うんですね。彼女。
今の哲学者って何してるんですか?って。
どうせ役に立たないことやってんだろ、ってことだねw


さて、学問は役に立たねばならないものなのでしょうか。
というか、役に立つとはどういうことなのでしょう。
お金になる。職業につながる、ということでしょうか。


わたしはその必要はないと思っています。
わたしたちが日常ふとしたことで思いをめぐらせることがあります。
死ぬとは?幸せとは?結果と経過とどっちが大切なのか?
そういうことは、数千年前から世界中で最も頭がいいような人たちが考え続けていることです。
そして、今も「学問」はそれを継承しながら、批判と言う形でオリジナリティを発揮し続けています。


抽象的思考にはその価値があると思うのです。


まぁ、こう思われるようになったのには「島宇宙化」とか関係あるのでしょうかねw
法学・哲学・医学といった1文字学問だけだった世界に
近代への分析として、経済学、社会学などが生まれていきました。
ウォーラーステインとか、この間の「社会学の名著」を参考)
最近では、国際福祉コミュニケーションスタディーみたいな意味わかってるのかというのが登場しています。
それは学問の蛸壺化の先にあるようでいて、かつ、「工学化」の先にあるようにも思います。
まぁ、いいんですが。


そういう「役に立たない」思想のための雑誌ができました。
(『現代思想』は党派色が強いですよねw)



北田先生と東さんが編集委員をやって
「抽象度の高い思考」に挑戦しています。
また、彼らはそれが「役に立つ」と自信を持ってやっています。
若い頃から、体験に根ざした語りをしているやつなんて信用ならない。
意味がわからない、とののしられても、抽象度の高い言葉をしゃべり続けろ、といつか言っていました。


さて、そのなかでも印象的な議論はメンバーシップ論。
社会の成員とはなんなのか、というような議論です。
非常に刺激的な議論です。
ユダヤ人は「メンバー」ではないと虐殺した歴史がある。
黒人は「メンバー」ではないとストレンジフルーツにしてしまった暗い歴史がある。
じゃあイルカや鯨は、類人猿は「メンバー」となりうるのか。


これは単純な問題ではありません。
社会とのかかわり方や、権利の範囲などを規定する問題です。


東さんはそうした議論を回避する道を、アーキテクチャに求めます。
まさに「自由の剥奪感」を剥奪してしまうような「環境管理型権力」の中で一種「動物的」に暮らせればそれで幸せなのではないかという話です。
一理あります。メンバーシップ論を肯定しながら「よき社会」を構想すれば、そこには宮台真司エリーティズムが出現しがちですから。
社会の問題をのみ考えるのであれば、「信頼」に頼るのではない社会の構想は可能性としてありえるでしょう。


しかし、生命倫理のことを考えていて、少し問題が生じるのではないかと思いました。
生命倫理的な問題のいくつかはメンバーシップ論的な問題設定を持っています。
例えば、人工妊娠中絶(あるいは生まれたばかりの子どもを殺すこと)であれば胎児は人間なのか。
人体実験であれば被験者は人間なのか。
PVS(植物人間)であればそれは人間なのか。


これは単純に生物種としての人間であるかを問うというよりも
自己決定権を持つ「近代的な」人間であるか否かを問う問題であると思います(一面ですが、もちろん)


その問題を考えるとき、それはアーキテクチャで解決できるのだろうか。そう思うのです。
自由に任せる、といったところで、彼らに「権力」は残されていません。(ウェーバー的な意味で)


ゆえに、わたしは「メンバーシップ」の問題を回避してはならないと思うのです。
そして、それには抽象的思考が必要であり、
またあるいは旧来の「飯の足しにもならない」学問が必要だと思うのです。