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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

ナショナルな価値は現代において動員装置の役割を果たすか。

どくしょ

ゼミの担当だったもので

リベラルなナショナリズムとは
ヤエル タミール
夏目書房
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結果はぼろぼろ。そもそもが難解な上に
訳の悪さ、校正の悪さ、そしてなにより僕の頭の悪さ
こんだけかさなりゃ、わけもわかりません。w


内容をきわめて単純に要約します。
近代的なリベラリズムを考えたとき
道徳問題・成員問題・共同体の成立の問題など、その埒外におかれざるをえない、あるいは解決が困難な問題があります。
そこに対して、ナショナルなものに文脈付けられた(これはあくまでも選択された共同体への所属ですが)個人を、リベラルの主体と考えることでこれを解決していこうという試みです。


たしかに、ナショナリズム、あるいはネーションな価値というのは一定の不変性をもってたち現れます。それは「日本」というような抽象的な国家に向けられるというよりは、自らの生育環境や、親、祖父母へと連なる血縁関係に基づくものでしょう。現に、人間がきのこのように生えてくる存在だったらナショナリズムなど存在しない、という論者もいます。


さて、リベラルな議論の基底にナショナルな価値を持ってこようというこころみはいつの時代もされます。
日本で言えば、戦後知識人の代表格、丸山真男、最近では「方法としてのナショナリズム」をとなえる中島岳志が有名でしょうか。
(北田先生的には後期宮台、てか最近の宮台真司はこんな感じみたい)


こうした議論に対しては2つ疑問があります。
1つは、ネーションがそれほどまでの動員力を持つのか、という話。
丸山真男の時代(知識人が大衆を先導していた?)であればいざ知らず、これだけ価値観の多様化が叫ばれる中で、ネーションなる価値がそれほどまでに動員能力を持っているかははなはだ疑問です。
しかし、これに変わりうる代替的な価値は僕の貧相な頭では思い浮かびません。そのとき道徳性を担保するもの(なぜ人を殺してはならないのか!)は見当たらなくなってしまいます。せいぜい功利主義に走るくらいでしょうか。あるいはアーキテクチャルな権力によって逸脱可能性そのものを奪ってしまうのでしょうか。僕はまだ個人という擬制を信じ続けたいです。


2つめ。ネーションからの逸脱者はどうあつかわれるのか、という話。
ネーションなる概念が文化的に構成されている以上は(=恣意的)そこからもれでるものは発生しえます。また、自らをネーションと思っているが外からはネーションとは見えないような共同体、あるいはその逆。ないし、人間と非常に近いと思われる哺乳類など、ネーションの埒外に置かれる可能性のある「個人」に対して、ナショナルな価値を基底としたリベラリズムはなにができるのでしょう。


以上、大雑把ですがこういう話をしてみたかった、ということで。