学問の中立性について
前々回の予告に沿ってね。
http://blogs.yahoo.co.jp/who113bun/56734670.html
とりあえず、これを読んでもらうところからはじめたい。
文系の学問って、客観的じゃないしー、ちょっと学問て言うにはどーなの?理系の学問は客観的だから成功してるっしょ。
ってな感じがある。(blogの人ではなく、和田先生が)
これには、アリストテレスの時代からの科学観の大きな転換が絡んでいるといえる。
アリストテレスは、日常にこそ真理があると考えていた。
たとえをあげるなら、日常生活で見ていて、重いものって早く落ちるよね―。!重いものは早く落ちるんだ!という具合です。
対して、近代の自然科学はそれをよしとしませんでした。
ガリレオを見ればわかりますよね。
実験をするんです。
日常から発想を得たものであっても、日常の出来事には夾雑物が入ってくる。
だから、実験して、「客観的に」事象を捉えて、テクニカルタームで記述して、ってやりましょう。
そうすれば、自然の言語(数学)を理解できるようになって、自然の本質にも近づけますね、バンザイ。
てなもんです。
まぁ、リチャード・ローティは『哲学の脱構築』所収の論文にてその自然科学的な発想を批判してますが。
自然をより理解できたから役に立つんじゃなくて、単純に役に立つんだ、って考えた方が有益じゃん?ってな感じで。*1
というわけで、文系の学問実験できないし、あんま客観的とも思えないし、どーなの、ってとこで、偉い偉い社会学者M.ウェーバーはこういうわけです・・・。
彼は、方法によってその客観性を担保しようとします。
出発点は価値理念(いいと思うもの)に彩られてはいても
ある種の方法的な規範に則って研究を行うことで
「それを求めるものであれば誰にでも普遍的に妥当する真理」にたどり着けると考えたのです。
それは、ひとつの解答でありながら、その正当性に関しては
常に価値理念によってのみ記述されるような不安があります。
上野先生なら
「それは、学問への誠実な態度」とでも言うのでしょうかね。
私は思います。
といっても、先生の言葉をそのまま伝えるだけですが。
理系の人間は言うでしょう。
文系の科学は再現性なくて実験もできなくて・・・。
しかし、だからこその価値があると思うのです。
理系の科学は所詮再現性があることしか研究できない。
社会科学によってなされるのは再現されることのない一つ一つの事象をある方法に基づいてモデル化*2することで、
現実の事象を予測することだ。と。
そこには何にも代え難い価値がある、と私は思います。
理系・文系なんて分け方に意味はないと思いますが。
再現可能性がある/ないくらいに思ってください。
いつもながらにぐだぐだ。