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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

こんばんは。お久しぶりです。

あまりに久しぶりすぎて・・・。
更新しようにもあんまりネタがないんですが、
私の一応の専門である社会学、がどういったものなのか、
について考察したので、お目汚しですがどうぞ。
第一節では、学史的な流れを見つつ、その問いの意味について考えます。
第二節では、社会学の社会における有効性の観点から、何らかのアイデンティティを見出そうとします。
たぶん学問がリベラリズムにおいて、必須の要件なんじゃないかという信憑に基づいています。
間違いも多いでしょうが、そっと耳打ちしてください。勉強になると思います。


1.「社会学とは何か」とはいかなる問いか


社会学とは何かという問いは、一見すると奇妙にも思える。社会学とは「社会を研究対象とする学問である」とはよく言われることである(富永, 1995:14、など)。しかし、社会とは何であるかは漠然としているし、社会とは何か、という問いが社会学のほとんどすべてを占めている、というわけではない。よって、社会学とは何か、という問いがなされるのであろう。しかし、それでもなお、「社会学とは何か」という問いがなされることが私には不可思議に思える。通常、「リンゴとは何か」とは問われることはない。そこに現にあって、手を触れ、味あうことが出来るからだ。「社会学」も、ウェーバーデュルケームの頃とは異なり、制度化がなされ、研究も積み重なり「現にここにあるもの」となっている。その上で「社会学とは何か」という問いをあえて発したとき、そこには「社会学とはいかにあるべきか」という規範的な問いが含まれているように思われる。そのことを十分に自覚した上で、この問いについて考えてみる必要がある。


 社会学が、「社会を研究対象とする学問である」ことに異存はないだろう。では、社会とは何か。富永健一によれば社会は、マクロ社会、準マクロ社会およびミクロ社会に分類することが可能である。(ibid.:21)これは、広義の社会(社会科学というようなときの社会)の対立概念として提示されている。つまり、社会学で扱われるのはあくまでも固有の領域としての「社会」であり、法学・経済学など社会科学の諸分野を束ねるものとして社会学が存在しているのではないということである。社会学の対象とする社会が何によって定義されるかはひとまずおいておくにしても、いかようにでも拡大して解釈することが可能な社会という言葉を限定して用いる必要があるという点でこの論を採用するべきだろう。さて、この限定された意味での社会とは何であろうか。デュルケームはそれを「社会的事実」と呼んで研究対象とした。(Durkheim, 1895:訳51-57)それは、社会的な制度と近いものと考えられた。多くの人間が集まって活動するときに、その集団における個人の総和以上のものであり、個人を拘束するものである。あるいはM.ウェーバー社会学を「社会的行為(soziales Handeln)を解明しつつ理解し、これによってその経過とその結果とを因果的に説明しようとする一つの科学」(Weber, 1921:訳7)としており、また社会的行為とは他者と関係づけられた行為だと述べられている(ibid.: 7)から、個人ではない部分をも見ていることがわかる。いかにあるべきかという規範論的な話を抜きにしてみれば、現在の社会学の多くもこの二つと同じように、個人というものの単なる集合と活動という見方とは違った視点(これはしばしば「意図せざる結果」というように記述されるだろう)から、人間の活動を説明していっている点では共通しているのではないだろうか。人間の行為を意図したもの・しないものをあわせて理解しようとするということは、法学や経済学など他の社会科学とは異なった視点から人間社会を見つめているという点で社会学のアイデンティフィケーションであるといえる。


  規範的な命題には立ち入らず、現にいかなる研究が行われているかに目を向けれて、「社会学とは何か」ということに関して中間的な考察をなすとすれば、1.ある種の拘束力をもつ「社会的事実」(有形無形の制度など)によって形成された目的や手段が社会的行為として実行に移され、2.意図した/しない結果を生み、3.あるいは新たな制度を形成していく。というような一連の社会的行為の全体あるいは一部について研究し、その結果はあるいはなんらかの予測を可能とするような学問、ということになるのではないだろうか。


 一方で、規範的な問いとしてこれを考えたとき、避けては通れないのが、社会学の「科学性」に関することである。デュルケームの議論やまたマートンの『社会理論と社会構造』(1957)では、社会学を自然科学と近似してその正当性を主張すると言うことが見られる(Merton, 1957:訳4−5)。しかしながら、アメリカのプラグマティスト、ローティなどは「実在との対応という考えを一切捨て」、現代の科学は「実在に対応しているからわれわれの役に立っているのではなく、ただ単に役に立っている」(Rorty, 1982:訳15)と述べ、社会科学が実在との対応を重んじるあまり、「役に立つ」ものになっていないことを批判している。(ローティによれば社会科学が役に立つとは、予測を可能にすることである)こうした批判にさらされたとき、この問いは「社会学とは何か」を越えて、「学問は役に立たなければならないのか」というような「学問はいかにあるべきか」という問題に直結してしまう。そして、この規範的な答えに従うのであれば「科学が科学たるゆえん」をはっきりとさせた上で、それにのっとった社会学を構築していく必要がある。このように、「社会学とは何か」という問いを、現実の存在の問題として捉えるか、規範的な命題として捉えるかによって、問いの性質が大きく変わってしまうことがこの問いに答えることの困難さを象徴している。


参考文献
Durkheim, E, 1960[1895], Les Regles de la methode sociologique, Presses Universitaires de France(=1978,宮島喬訳『社会学的方法の基準』岩波書店
Merton, Robert K., 1957[1949], Social Theory and Social Structure --Toward the condification of Theory and Research, The Free Press:USA (=1961, 森東吾他訳『社会理論と社会構造』みすず書房
Rorty, Richard, 1982, Consequences of Pragmatism, Minnesota: University of Minnesota Press
(=1985, 室井尚ほか訳, 『哲学の脱構築 プラグマティズムの帰結』,御茶の水書房)
富永健一, 『社会学講義 人と社会の学』, 中央公論社
Weber, Max, 1921, Soziologische Grundbegriff, Tubingen(=1987, 阿閉吉男訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣)


2.社会学とは何か
−「工学」的解決を超えて


2.1.社会学とは何か−アイデンティティ・クライシス
 社会学とは何か、この問いに関して、世界システム論で著名なWallersteinは以下のように述べている。「一七八九年のフランス革命、およびその結果として近代世界にもたらされた文化的混乱」によって「社会的現実に関する研究」が求められ、いかなる学系に位置づけるかが問題が生まれた。そして、国民主権の国家において、国民がいかにして意思決定をなすのか、ということについての理解を得るため、社会科学が生まれた。この中でも、リベラリズムが近代性を市場・国家・市民社会という三つの社会的領域へと分化した。そこでそれぞれに対応して、経済学・政治学・社会学が生まれた。(Wallerstein, 2004[2006]:22−32)彼の言うことは、学問の歴史的経緯を追えば、もっともであるようにも感じられる。しかし、社会学の現実は必ずしも、上記のようになっているわけではないだろう。というよりも、社会学を単に「市民社会」を対象とした学、としたのでは、定義として意味を成さないほどに広範に渡ってしまうし、一種の政治性を持った市民だけを対象とするのでは、学問的なアイデンティティとして問題が残るだろう。ここで必要なのは、社会学を対象の面からのみ定義するという方法ではなく、ある目的に沿って定義することで、今までなされてきた個別・具体的な研究を含めて、包括的な理論体系を構築していくことにあるのではないだろうか。そうした立場に立つとき、「公共社会学」という考え方や、(若干の批判はあるものの)Burawoy の”Public Sociology”という枠組みは有効なものといえるだろう。そして、それが求められていることは、Burawoyの議論に注目が集まったことからも伺える。ここには一種の「アイデンティティ・クライシス」があるといえるのだろう。


2.2.社会学の客観性と「価値」
 Weberが『社会科学と社会政策における認識の〈客観性〉』において、またはDurkheimが『社会学的方法の規準』や多くの論文において示したことは、社会学はなるべく「客観的な方法」を用いるべきであり、「価値」からは自由(または「価値」へ自由)であることが求められるということだった。これは、以降の社会学に絶大な影響を及ぼした。合理的選択理論などは言うに及ばず、20世紀を代表する社会学者の一人である、Luhmannも(それが擬制的なものであっても)社会の外的な視点を確保して社会を観察しようとしている点では、「客観性」に何らかの意味を感じていると言えるだろう。馬場(2001)の「環境/システム」の二項対立に関する記述(13−20)においてもそれは伺える。しかし、そうした、客観性を重んじた研究は実証性を担保するうえで有効だったが、それぞれの研究に閉じたものになり、共約性を失っていったように思う。丸山眞男が、学問全体の状況として述べたような「タコツボ化」(丸山,1961: 129)が社会学という学問分野においても起きている。上記で見てきたような「アイデンティティ・クライシス」を克服するために(経済学が市場的な「価値」を追求することを暗黙の目的としているように)社会学もなんらかの価値を追求することは戦略として有効であるように思われる。


 社会学が何らかの価値を追求することは肯定されるだろうか。社会学外部における議論では例えば、Winchは社会科学の諸分野が「自然科学的方法」(=「客観的」方法)をとることの有用性をWittgensteinの哲学の立場から批判している(例えば、「問題は経験的なものでは全くない」、「私は、人間社会という概念には自然科学においてなされる類の説明とは論理的に両立しない一組の概念図式が含まれていることを示そうと思う」(Winch, 1958:訳89)といった調子で)。また、プラグマティストであるRortyは、は「実在との対応という考えを一切捨て」、現代の科学は「実在に対応しているからわれわれの役に立っているのではなく、ただ単に役に立っている」(Rorty, 1982:訳15)と考える。また、彼は同論文において、社会科学の価値は「予測」という意味で役に立つことだという立場を明確にしている。社会学内部(あるいはその近辺)の研究者でも、吉見俊哉は私たちの質問(2008年10月20日実施の質問会)に答えて、学問的な主張に対する批判の種類として「有用性の批判」を挙げていることから、社会学という学問分野が何らかの役に立つことを肯定的に考えている。「役に立つ」ことを肯定的に捉えるとは、意識するとしないとにかかわらず、何らかの「価値」にコミットしていることを示すものであり、いくつかの観点から、社会学が「価値」を前提として考えられることに関して肯定的な認識が出ているといえるだろう。そして、あくまで何らかの「価値」が前提化されているとするならば、それを意識しないことはかえって危険なことであろう。私たちはこうした「価値」について意識的になる必要があるように思われる。


 そのとき追求すべきは「社会的な幸福(効用)」であると私は考える。それは、Wallersteinが社会学を市民社会を見るデバイスとして考えたことにも対応した仮定でもある。つまり、経済学は「市場的な善」を、政治学は「国家(の決定)における善」を、社会学は「市民社会における善」を追求するものであるという仮定である。その仮定が正しいか、ということについては、さまざまな議論があるだろう。また「効用」などといったところで概念として曖昧であるという批判ももっともである。この二つの議論について留意しつつ、以下において「社会的な幸福」を(市民)社会を対象として研究することで追求する学問としての社会学の可能性について」論じる。
 
2.3.工学的な社会認識と囚人のジレンマ
 その前に、別の方法で「社会的幸福」を検討している分野を見てみよう。それは、「ソシオ・フィジックス」という分野である。これに対して、名づけが行われたのは、『思想地図 vol.2』においてである。議論を概観する。北田は「ソシオフィジックスは可能か」と題された座談会においてこれを「ケトレの「自然物のように社会を見る」精神を引継ぎしつつ、それをデュルケムのように社会学化していくのではなく、社会学とは異なるかたちで体現していこうという試み」(東・北田編, 2008: 307)として定位している。この試みは批評家東浩紀がFoucoultやLessigの議論を援用しつつ支配を類型化した「規律訓練型」と「環境管理型」の分類を体系付けうるものである。(東・北田編, 2008: 293)環境管理型権力は、例えば、マクドナルドのいすが硬いために長居ができない(これ自体は都市伝説である可能性は否定できないが)、といったように、環境を設計することで、規律訓練を必要とせずに人間の行動を制御するという方法である。これは、Lessigにおける人間の行動を制御する4つのもの法・規範・市場・アーキテクチャのうちの、アーキテクチャに対応するものだといえる。これを、ゲーム理論の有名な「囚人のジレンマ」を用いて説明するとすれば以下のようになるだろう。「囚人のジレンマ」の状態は「社会的ジレンマ」すなわちナッシュ均衡がパレート非最適であるような状態のうちのひとつとして捉えられる。この状態を解決するためには、いくつかの方法がある。例えば、ナッシュ均衡が起こる状態を変化させるという方法がある。これは、変化を「ルールの変更」によって起こそうとしているように思われる。囚人のジレンマ、で言えば、刑期を変更し、双方が自らにとってもっとも有利な決定を行ったときに、もっとも全体としての景気が短くなるように設定する、ということである。アーキテクチャ的な解決で言えば、何らかの方法によって、「協力」を選択することが、「快」であるように、あるいは事実的に「裏切り」を選択することが不可能であるように、環境を設計すればよい。(あたかも、段差がある建物には車椅子が入れないように)こうしたアーキテクチャ的な方法での社会問題の解決(=「社会的幸福」の増大)は近年多く見られることであるように思う。例えば、地下鉄のホームに取り付けられたホームドア(自殺者を減らす)、駅に作られる意味不明なオブジェ(ホームレスを住まわせなくする)などなどである。

2.4.「社会学とは」−答えるための戦略
 こうした支配の方法について、北田は「工学的」と呼んで批判を行っている。それは「社会空間は意味によって構成されるという観点から、アーキテクチャに対して「人間」的に抵抗する可能性を断念すべきではない」(東・北田編,2008:377)という観点からである。私も、この立場に近い。そして、社会学のなすべきは「意味」的な次元で様々な社会問題を解決すること、つまり、「ルールの変更」といったものではなく、また、アーキテクチャ的な発想でもないやり方で「囚人のジレンマ」を解決するということなのではないか。それは、ルールの変更や他の条件的な変更なくして、囚人に「協力」を選ばせることである。おそらく、そのひとつの方法は社会に関する体系付いた理論を提示して見せることであるだろう。


 以上、社会学とは何かを研究する対象、追求する価値とその手法という観点から考察してきた。現実問題としては、「社会学とは何か」という問題は扱うに手に余るものであった。それゆえ、本稿では、その問いに直接的に答えるというよりもむしろ、その問いに答えるための戦略的一歩として、(それが唯一の道であるかはさておき)社会学における「価値」ということについて述べてきた。社会学とは何かを考え、また、社会学の追求する「価値」が何であるのかに対して、意識的になることは、そこにおいて、社会学という体系にとっての共約可能性を生むのではないだろうか。もし、それが可能なのであれば、そこには大きな意味が含まれている。膨大な知の蓄積になんらかのベクトルや、インデックスがつけられていくことだからだ。丸山の言葉を再び借りるのであれば、「ササラ型」(丸山,1961: 129)を目指すということにつながろうか。社会学における断絶をそのままにするのではなく、何かの方法で方向付けていくことは必要なことだ、ということを強く感じた。


参考文献
東浩紀北田暁大編著, 2008, 『思想地図 vol.2 』, NHK出版
馬場靖雄, 2001, 『ルーマンの社会理論』, 剄草書房
Burawoy, Michael, 2004 American Sociological Association Presidential address: For public sociology, The British Journal of Sociology 2005 vol.56
Lessig, Lawrence, CODE and other laws of cyberspace(=2001, 山形浩生・柏木亮二訳,『Code インターネットの合法・違法・プライバシー』, 翔泳社)
丸山眞男, 1961, 日本の思想, 岩波書店
Rorty, Richard, 1982, Consequences of Pragmatism, Minnesota: University of Minnesota Press
(=1985, 室井尚ほか訳, 『哲学の脱構築 プラグマティズムの帰結』,御茶の水書房)
Wallerstein, 2004, World-System Analysis An Introduction, Duke University Press(=2006, 山下範久訳『入門・世界システム分析』藤原書店)
Winch, Peter, 1958, The Idea of a Social Science and its Relation to Philosophy, London:Routledge & Kegan Paul(=1977, 森川真規雄訳, 『社会科学の理念 ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』新耀社)



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