読書は人間の夢を見るか

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「綴じられている」意義とウェーバー

書物は危機にひんしているという。
より便利な情報ツールとしてのコンピュータがあらわれ、
それはインターネットを介して、世界中の知へと接続されている。
速報性、情報の多様性、さまざまな点からその優位さを指摘される。
書物の側は、一覧性、などとか細い抵抗を試みる。
書物の本来の意義は、その情報としての性質にあるのではない。
その本質は長谷川*1の言うように「綴じられていること」にある。


ウェブ上の情報は常に書き換えられ、追記されていく運命にある。
一つのまとまりを構成していくのではなく、断片的な情報の集合として認識される。
対して、書物(あるいは新聞など)は「綴じられている」。
それは一個の完結した体系を構成する。
追記や書き換えは原則許されない。


そんなことに何の意義があるのだ、という向きもあるだろう。
しかし、ここには決して見逃せない意義がある。
それは批判可能性である。
書物の意義は、正しい情報であることにあるのではない。
正しくないとわかった時にそこに批判が生まれる可能性を担保することにこそあるのである。*2
そして、批判可能性が存在しないところに知的な進歩は存在しない。


ウェブ上の話に批判を加えたとしよう。
しかし、それは「噂話」に批判を加えることに等しい。*3
間違っているといないとにかかわらず、噂話は盛り上がり/失速する。
そこに蓄積は生まれがたい。
同様に、ウェブ上における批判はある特定の情報の正誤に限ったものになり、
その「情報」がほかのところでまた生まれていったさきに、議論を体系的には整理できないだろう。
また刻刻と変化していくものに対する批判は非常に難しい。


これは、ウェーバーが理念型について語ったこと*4と相似形をなす。
鋭く構成された理念型の役割について彼は、それが歴史的事象をうまく説明することではなく、後世の研究者によって批判されることにあるという。
そしてまた彼は鋭く構成された概念を用いないで議論を行うことの危険性をも指摘している。
まさに現代にこそ生きる議論であるように私は感じた。




*1:http://ci.nii.ac.jp/naid/40016572262を参照

*2:印刷術の発展以前はそもそも書いてあることの共有ができなかったので、批判の共有は不可能だった。印刷術の発展により、Copyを万人が手にする状況が生まれ、批判の可能性が生まれた。

*3:もちろん程度の違いはある

*4:『社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性』