秒速5センチとメディア論
を見た。
第一印象は絵がきれいだと言うこと。
新海作品は昔「ほしのこえ」を荒い画質で見たのだけれど、
それとは全く違いますね。当たり前ですが。
DVDやBlue-rayで見るべき作品だと感じました。
人を描く線と、
まるで写真みたいな絵と、
ほんわか絵画的な絵と、
三つが調和していて心地よかったです。
さて、この作品、監督が語るに、距離やスピードをテーマにした話のようです。*1
伝えたくても伝えることのできない思いや、
心と心の距離の接近etc...
この作品は、メディア論的に見ると面白いのでは?とおもいます。というか、教材になりそうなくらいです。
章ごとに見ていきます。
(ネタバレ注意)
桜花抄
「ほしのこえ」はケータイコミュニケーションが軸だったわけですが、*2
ここにはケータイが出てきません。
時代設定をずらすことで、ケータイ抜きのコミュニケーション話が実現できたわけですね。
よくいわれることですが、ケータイ以前と今では、待ち合わせのスタイルが大きく変わっています。
ものすごく詳細に場所時間を設定し、遅刻をしないように最新の注意を払っていた昔。(13時きっかりにハチ公の尾っぽの左側、とか)
対して今は、時間も場所もアバウトです。(せいぜい、13時くらいにハチ公らへんで、といった)
遅刻も割と当たり前で、ケータイのメールを使って数分の遅れを連絡します。
というわけで、この話はケータイ以前でないと成り立たない、と。しかも、連作短編にすることで、無理矢理感を薄めていますね。
次にメディアとして登場するのが鉄道。
メディアとして理解されることは少ないですが、
マンチェスター・リバプールの初の鉄道の例を見ても、
鉄道はメディアとして大きな役割を果たしたと言えます。
電車・駅の描写が非常に多いのは、今でも鉄道(駅)に一種のメディア的な意味があるからだ(と作者が感じているからだ)と思います。
あとは、雪の桜の木の前での出来事。
めっちゃメディア的ですね。
そこから先も、成長するに従って、ケータイのメールだったりなんだったり、重要なメディアが出てきて面白いと思いました。
「伝わる」ことってあり得るのだろうか、そんな視点もありかと。コミュニケーションってなんだろうか。
ところで、どうも、貴樹はずっと明里に恋い焦がれていた、というようなことで見られているのですが、私が思うに、別に好きだったわけではなく、ただ、伝えきれなかったこと、伝えてこれなかった無念、が横たわっているだけに思います。
どうなんでしょう。人の心情はよくわかりません。
もう一度見てみたいと思います。