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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

帝都復興院について

 大震災が日本をおそって早2週間が経とうとしています。
復興に向けた作業も本格化し、なかでは「復興庁」創設へ向けた動きも見られます。
そのモデルとなったのが、帝都復興院です。
今回は、その帝都復興院について、背景や概要などをまとめてみたいと思います。

 政府・民主党は20日、東日本巨大地震被災地復興などに取り組む「復興庁」を創設する方向で検討に入った。


 複数府省にまたがる復興事業を統括し、迅速に復興を進める狙いがある。専任の担当閣僚を置き、内閣法改正で増員を検討している閣僚の1人を充てる方針だ。


 「復興庁」は、関東大震災後に首相直属機関として設置され、大規模な復興計画を立案した「帝都復興院」を念頭に置いたものだ。東日本巨大地震では、復興予算の規模が阪神大震災を大きく上回る10兆円超に及ぶとの見方もあるため、政府・民主党は新たな統括組織が必要と判断した。


 現時点では内閣府の外局とする案が有力だが、独立組織とする案もあり、今後、具体的な議論を進め、必要な法改正も行う方針だ。
(2011年3月21日08時48分 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110321-OYT1T00005.htm


0.復興院前史
 1921年4月。当時東京市長であった後藤新平はのちに「所謂八億円計画」と呼ばれることになる都市計画を市参事会、市会議員、中央政府に対しそれぞれ提出する。当時東京市の予算は1億2,3千万円、中央政府の予算総額が15億円程度である。その時代に、7から8億円の予算を要する大きく16項目の都市計画を打ち出したのだ。


 この計画は「大風呂敷」として論議を呼ぶことになる。また、このとき、推進に当たり、市に必要なこととして、調査機関の設立や公務員職制の改革による予算の節減を達成していった。結果として、都市計画はあまり遂行されなかったものの、この計画が、のちの東京のかたちに大きな影響を与えたと考えられる。またこの他にも、後藤は都市計画法の公布や専門家スタッフの養成など後につながる多くのことをやってのけている*1


 そして、1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が起こる。地震と猛火は東京に壊滅的なまでの打撃を与えた。死者・行方不明者は10万人にのぼるとも言われている。後藤新平は、翌日成立した第二次山本権兵衛内閣にて、内務大臣に就任。その日の夜には一人で東京復興の基本方針4項目を練り上げている。それは、


1)遷都を否定する
2)復興費に30億円をかける
3)欧米の最新の都市計画を適用する
4)都市計画の実施のために地主に断固たる態度をとる
*2


というものである。
 そしてまた、そのわずか、4日後の9月6日には「帝都復興の議」を閣議に提出する。


 この中で帝都復興のための最高政策を決定するための臨時帝都復興調査会の設置や復興に関する特設官庁の新設を提唱した。また、復興経費は国費とし、その財源は長期の内外債で賄うこと、罹災地域の土地は買収・整理の後適当公平に売却貸し付ける、といった方針を出している。これを受け、9月19日に「帝都復興審議会官制」が発布。内閣総理大臣を総裁とし、その諮問に応じて審議を行う機関が立ち上がった。その根底には「東京は帝国の首都」であり、「単に一都市の復興」ではない。そしてこれが「理想的帝都建設のため真に絶好の機会」という考えがあった*3


 そして、9月27日、震災復興のための特設官庁として、「帝都復興院」が立ち上がる。都市をもとの形に戻す「復旧」ではなく、新たなものを作り出す「復興」が目指されることとなった。



1.概要
 帝都復興院は東京及び横浜における都市計画・都市計画事業の執行および市街地建築物法の施行その他復興に関する事務をとる機関である。以下では、その組織、計画内容、その後の評価などについて概観する。


1-1.組織
 帝都復興院には、総裁官房、計画局、土地整理局、建築局、土木局、物資供給局、経理局がおかれ、職員数はそれぞれ以下のとおり。


総裁(1人)
副総裁(2人)
技監(1人)
理事(7人)
書記官(15人)
事務官(30人)
技師(105人)
属(150人)
技手(350人)
(事務官には他に内閣総理大臣の奏請により関係各庁の高等官を命じられる。また、参与・参事として各庁の高等官または学識経験者を命じられる)


 初代総裁は、もちろん後藤新平。そして、局長など幹部職員は内務省鉄道省の後藤派が占めた。理事件建築局長に東大教授でった佐野利器(「都市計画法制定運動」の立役者でもあった)を迎えたとき、何をするのかと問われた後藤は「復旧などではなくてこれからは復興だ。この際何をするのかということはソッチで考えろ、俺にわかるか」と言ったという*4。他にも、人材を広く求め、幹部職員の会合で方針を速断していった。


1-2.計画と成果、その後
 帝都復興計画の策定は池田宏と佐野利器が中心となって進めた。理想案では、41億円の予算を要するものだったが、財政事情が考慮され10億円の規模となった。10月18日帝都復興院の理事会は計画原案を決定し、10月27日閣議の了承を経て、政府原案となった。
幹線道路の整備(非焼失地域含む)、大規模な公園、地域コミュニティの中心としての小学校の設立などをふくんでいた。
 その後、予算計画の最終的な詰めが行われ、借金の利払いの関係から、11月下旬には7億300万円(後藤が大風呂敷と批判されたあの計画と同程度の額)として、復興審議会に提出された。しかし、この場で計画は大きな反対にあい、幹線道路の幅員縮小(廃止)や築港、運河の廃止など含む大幅な予算減を強いられることとなる。

 1924年3月、区画整理の実施が認められ、焼失区域は区画を整備される。また、幹線道路と生活道路が行き渡り、上下水道も整備された。また、デザイン性のある橋梁は近年再評価され、大きな公園(隅田公園など)は世界的にも称賛を受けた。その他にも同潤会アパートの建設など、この計画による遺産には枚挙にいとまがない*5

 しかし、復興院の規模は権限内容に比して大きすぎるのではないかといった議論から、1924年始めには復興員は廃止され、内務省の外局としての復興局に格下げされてしまっている。
 

1-3.評価
 現在の東京の骨格を作った計画であり、現在求められている大規模な幹線道路を車のない時代から計画に盛り込む(幅員は縮小されてしまったが)など評価されることが多い。「当時の有力者、世間の無理解と反対を考えると、復興事業が短期間で実現したことはむしろ奇跡に近い」*6ともいわれ、それを可能にした、一つの要因として、復興の事務を一手で取り仕切ることのできる組織があったことは十分に考えられる。

 一方で、区画整理においては当時より財産権の問題が議論にあがった。また、無秩序なスプロールによる郊外の脆弱な市街地の形成や、バラック建築の未撤去によるスラム地区の形成など、問題点を指摘されることもある。*7くわえて、財政・経済面の問題も指摘せねばならないだろう。租税減免の実施もあり、震災発生直前1.1億円であった国債費は1924年2倍近い1.9億円まで上昇した。また、震災外債が発行されたが、その条件は不利なものとなり、「国辱公債」などと批判を浴びた。長い目で見れば、ここで行われた財政・金融政策は(その後の政策ともあいまって)昭和金融恐慌や昭和恐慌へとつながったとも考えられうる。


2.まとめ
復興庁をモデルとした組織構想は今回がはじめてではない。「九五年の阪神大震災でも「阪神・淡路復興委員会」が設置され、住宅や神戸港の早期復興などの提言をまとめ、復興を加速させた」(「政府「復興庁」創設へ 今国会で法案成立目指す」『東京新聞』2011.3.23http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/ck2011032302000032.html.)


 今後、東日本を襲った大震災からの復興が本格化する。関連する組織が多くある中で、また新たに復興庁を立ち上げるのは尚早であるという意見もなおあろう。
 復興院(復興計画)の業績、初動の速さは少なくとも一面においては讃えられるべきものではあるが、今求められているのは、それを無条件に模倣することではない。後藤の時代とは違い、新たに創り上げていかなければならないものは都市ではない。「復興」されるべきは社会そのものだ。そのために、何が必要か、考えることが肝要であろう。


(詳しくは参考文献の方にあたっていただければ幸いです。)


3.主要参考文献
関東大震災における国の体制」『「復興体制・手順」に関する参考データ』p.1-3http://www.bousai.go.jp/fukkou/kento21-4_files/08_sanko1.pdf.(内閣府防災情報のページより、「首都直下地震の復興対策のあり方に関する検討会(第4回)平成22年3月17日」の参考資料)
「帝都復興院」毎日コミュニケーションズ編『大正ニュース事典』毎日コミュニケーションズ, 1988, pp.548-551.
越沢明「関東大震災後の「帝都復興計画」に学ぶ」『President』1995.4, pp.168-175.
「第2章 関東大震災と帝都復興」越澤明『復興計画』中央公論新社, 2005, pp.41-86.
室崎益輝「過去の災害に学ぶ26 1923年9月1日関東大震災 その3」『ぼうさい』55号, 2010.1.
http://bousai.go.jp/kouhou/h21/01/past.html.
小野寺伸夫「後藤新平研究(VIII)帝都復興計画の基本発想」『医学史研究』(70), 1996, pp.31-36.


*1:佐野利器、池田宏らは都市計画の実施への機運の盛り上がりの中、都市研究会を結成。会長に後藤を迎えていた。彼らと関西建築協会、建築学会らは都市計画法市街地建築物法の制定に向けて動き、後藤の賛同もあって、内務省に都市計画の課がおかれることになる。

*2:越澤明,2005:p.43.

*3:『帝都復興の議』より

*4:越澤前掲書:p.48

*5:中央卸売市場、ゴミ処理場、浄水場なども作られた

*6:越澤前掲書, p.83

*7:室崎益輝, 2010.