読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

「世界」のすべてを載せた詩があるとしたら −「病気」とはなにか

(Booklogからの転載)はじめに、家族という立場にあるものからのレビューであることをお許しいただきたい。




本が手元に届いてからも、私はなかなか本を開く気になれなかった。
怖かったのだ。


父の、つまりはこの本の筆者の状態はもちろん百%ではない。
ページを繰っていけば、彼がこれまで積み上げてきたものが、
私の前に立ちはだかる者としての彼が、崩れ去ってしまうのではないか、
そんな恐れを抱いていたのだ。


杞憂だった。
そこにあったのは、私にはとても紡ぎ出せない「凄み」のある言葉の数々。
いや、もしかしたらこれは、以前の筆者にも書けなかったのかもしれない。


薀蓄をちりばめ、変幻自在の修飾語を用いながら、ページを埋め尽くすのが豊穣な表現だとするならば、この本はそれには当たらないかもしれない。
むしろ、そのような表現は全てが余白へと沈み、筆者にとってのその瞬間の全てがこめられている。
少なくとも筆者の生きる「世界」において、その瞬間、それ以外の表現はあり得なかったのだろう。


切り詰められた音の数。
他の人が弾いたら、ミスタッチだと思われかねないフレーズ。
彼の憧れたジャズピアニストを思い出す、なんていったら笑われるだろうか。
(そういえば、昔ピアノの先生にこれが弾きたいと父が言ったとき、「私にも弾けませんよ」なんて笑顔で言われてたことがあったっけ)


筆者は、あるところでのインタビュー(といっても筆談だけど)で、どのような人に読んで欲しいかと問われて、
「自分が病気だとわかってない人に読んで欲しい。肺に穴があいているのに必死で呼吸している人、足が折れているのに懸命に足を回転させている人、それと同じようなものだ。わからないのにわかったふりをしたり、またはその逆だったり」
と答えている。


彼と同じ病気を患った人には自分がそのような病気であるという意識が欠如している人も多いという。それによって、本人や家族、周囲の人が苦労をすることもあるだろう。
同じような病気の方、周りの方に読んでいただき、少しでもその世界の理解に役立つのであれば本望だろう。
また、この本を読み、この文章を改めて考えたとき、これは「私たち」に向けられたものなのかもしれないと感じた。


「自分が自分で、怖くなる。何を言っているか、わからないんだからね。
そう書いているボクの横で、奥さんが言う。
「酔っ払ってても同じだったでしょ。怖くないよ!」
昔のボクと、何にも変わらないのか・・・・・・。そりゃそうだな。」(p.36)

彼はいう。
そう、私たちの肺にも穴が開いているのかもしれないのだ。深呼吸をしてみよう。
2014年の「書き」初めだ、なんて思っていたら思いのほか長くなってしまった。