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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

公共マナーはもはや鉄板の炎上ネタということでもあり、特につっこまないことにしている。

思考の痕跡

というより、最終的には「程度問題」と「思いやり」みたいな結論に落ち着くので、書いてもあまり実のあることにはならないように思っている。
ただ、以下のエントリを読んで、身近な経験を思い出したので、少し書いてみる。


本山勝寛 「堀江氏のツイート炎上で考える日本人の「人様に迷惑をかけない教」」アゴラ.


そもそも、今回の案件も程度問題だ。
それも、二つの面を持っている。
一つは、子どもの泣き方、つまりは、周囲の迷惑になっている(もしくはそのように感じられる)ことの程度。
もう一つは、それに対する対応の程度だ。スタートの時点でも堀江さんは「舌打ちくらい」と言っているわけで、嫌悪感を示すことや実力行使をすることまで含めて、子どもが泣いていることを不快に感じる(または何らかの対応をとる)ことをすべて同様に扱うのは公平ではない。
つまり、この問題は、「迷惑」がどの程度までならば許容されるかの問題であると同時に、「対応」がどの程度までなら許されるかの問題でもあるということだ。
しかし、これは上でも書いたように、(特に前者について)コンセンサスが取れている部分はあるにせよ、個人の価値観に依存する部分が大きい。マナー全体のあり方について論じることは、ある種の「正義論」*1のようになってしまうし、それを論ずるに足る知識も能力もないので、ここでは止めておく。
社会的な合意が形成されず、保護すべき利益が大きい(と考えられる)のなら、電車内での携帯電話マナーや女性専用車のように鉄道会社にルールの制定を求める(もしくはより上のレベル/他の方法で規制する)ということになるのだろう。


前置きが長くなった*2。上のエントリーの中で、

私は障害者団体の代表の方が、「日本は屈強な男性成人を前提にすべての社会が成り立っている」と語られた言葉が頭から離れない。


という一文が印象に残る。


まさにここ一年程度で経験したことだからだ。
「舌打ち」
もちろんある。車椅子を押しながら、エレベーターを待っていたとき。
扉からたくさんの人が降りてきた。
気は使っていたつもりだ。でも、そもそも通路の広さやそこにいる人の関係で、最適な(邪魔にならない)位置を取れないことは往々にしてありうる。
邪魔だったのだろう。否定はしない。
舌打ちも悪気があったわけではないかもしれない。うらんでいるわけでもない。
だが、数ヶ月たった今でも記憶からは消えない。


他にもある。
ターミナル大規模な駅に福祉タクシーで行ったときのことだ。
タクシー”降り場”で車椅子を下ろしていたら警備員(?)さんに止められた。
福祉タクシーはここではやらないことになっている、と。
確かに「迷惑」かもしれない。車椅子をおろすには時間がかかるし、占領する幅も大きくなる。
では、どこで、と聞くと、外の道路でという、それはそれで、いや場合によっては更に周りに迷惑をかけるだろう。


何だか、恨み言を書き連ねているようになってしまったが、そういう意図はない。
だって、何をいったって決められた枠組みがあるのならその中でしか生活できないのだから、そんなことをいっても仕方がないのだ。*3
しかし、一つの考える材料にはなると思っている。
こういうことはなかなか想像がつかないことだから(数年前の私もリアリティを持っては考えられなかっただろう)。


どこまで「迷惑」をかけることが許され、どの程度の対応をすることが望まれるのだろうか。
「障害者」の話も、子どもの話も、酔っ払いの話も、もしかすると私のドン臭さの話も、一つの平面の上にあると私は思っている。
しかし、そこには断絶があり、自分とは異質な「他者」に対してベールが被せられている。


エントリ中にもあるように、「実際には人様に迷惑をかけずに生涯を全うすることはほぼ不可能であり、人間は赤ん坊のときは泣いてわめいて迷惑をかけ、子どものときにはいたずら、いじめ、授業の怠慢、反抗期で迷惑をかけ、社会人になっても仕事に失敗したり、飲みつぶれて迷惑をかけ、親になったら子どものことで周りに迷惑をかけ、やがて歳をとれば皆が誰かの世話になる 」のだ。*4


おそらく、人は「迷惑」をかけずに、そして、迷惑に対処せずに、働くことも、生きることもできない。
つまりは「迷惑」への対応は社会における労働力(という言い方が悪ければ生命)の再生産の負担の分配の問題としても捉えられる*5
私ももう一度、「迷惑」を自らが生きているこの社会がどのように成り立っているか、ということと結びつけながら考えてみたい。

*1:「カントは」とか「ロールズは」とか、サンデル先生に任せておきたい

*2:言い訳するなら前置きしないと怖いのだ

*3:更に、付け加えて言うなら、エレベーターになるときに扉を押さえてくれたり、前を空けてくれたり。その他にもいろいろな方からご厚情をいただいており、世の中思ったより親切なものだ、とも思っている。

*4:父が倒れて以降、人が倒れたという話をよく聞くようになった。今までは耳に入っていても、頭に入ってきていなかった。病気は誰にも起こりうることだ、というのを身をもって感じている。

*5:瀬地山角・教授は、授業で家庭を三つの面から労働力の再生産の場であると言っていた。1.次世代の労働力としての子どもの再生産、2.労働による心身の疲労を癒す(日常における個人の労働力の再生産)3.老後等の面倒をみる=保障があることで働けるという意味での再生産。(だいぶ前に聞いた話なので間違っていたらごめんなさい。)