鉛筆書きのメディア論
「鉛筆だってIT(Information Technology)なんだから」
大学2年生の講義で聞いた言葉が、いまでも頭の根っこを支配している。
ITというと、パソコンやスマホ、最先端のデジタル機器を思い浮かべてしまうけれど、実際には鉛筆やノートだってInformationのためのTechnologyであることには違いない。
だから、最新のIT機器について、などと聞かれると、ひねくれた自分は、最新型のシャープペンシルの話でもしようかと思ってしまう。
再び、この言葉が頭に浮かんだのは、小田嶋隆さんのライティング講座に行ってきたからだ。
文筆を生業にしてきた私の父は、ここ20年ほどの間、PCを使って原稿を書いてきた。
1993年に初めてPCを買った父は『電撃編集作戦』という本の中で、こう語っている。
思うにペンを握る指先と文章をひねり出す頭脳は間接ではなく直接に結びついている。あらゆる手作業というものは、アタマではなくカラダで覚えるものだ、と言われるように使い慣れた編集の道具も簡単に換えるわけにはいかない。
神足裕司『電撃編集作戦』アスペクト, 1996, p.12.
予備校時代に、文章を書き始め、以来十数年にわたって原稿用紙の升目を埋め続けた。
私たちは、考えたことを書き留めているのではなく、書くことによって考えているという側面が間違いなく存在する。考える、そして、書く、と言う作業にとって、そこに介在する道具は、クリティカルなものだ。
キーボードを伝って、画面に表示される文章は「デジタル」だ。
デジタルの語源である「指」そのものを使って、「二値的」に打ち込まれ、そして、あとから容易に、そして、いくらでも書き直し、書き加えることができる。
「アナログ」の語源である比例のグラフを思わせる、いや父の場合はテルアビブかバグダードあたりのミミズが這いまわったような線だけれども、鉛筆の痕跡は容易に変更することはできない。
それゆえ、書き始める前に、人は苦悩し、大枠の構想を定めておく必要がある。
ティーショットをどこに打ち、どこからアプローチするのか、グリーンのどこから決めていくのか、アタマで描く。そしてまた、フェアウエーを外したような時が腕の見せ所でもある。
あるいは、詰み上がりをアタマに描きながら、頭のなかで駒を動かす詰将棋のように。
私も、別に作文で何かしようと思っていたわけでもないけれど、父の友人に随分と原稿用紙の使い方を仕込まれた。原稿用紙に書くことは殆ど無いけれど、今その教えを噛みしめる。
PCの登場によって、モノの書き方が変わったことには、小田嶋先生も、内田樹さんとの対談で触れている。
「書き出しなんて考えずにとりあえず書けばいいんだよ、と本書で書きましたが、それはワープロ時代の書き方ですね」*1
で、その小田嶋先生から頂いた質問に、病気をする前と後の文体の違いがなぜ生まれるのかについて、というものがあったのだ。
先生の適切な表現を借りるならば「逡巡や空回りを含んだ遊びのある文章」から「短刀のような切れ味と豊かな余白」が感じられる文章へ。
その変化はなぜ起きているのか。
考えることが難しくなっていること、思い描いた構想と違う方向に行ってしまうこと。それを防ぐために短く切り詰めた文章を書いていること。
父はそんな説明をしていたけれど、いつも横で見ている私のアタマには、違う理由が浮かんだのだ。
父は今、病気をして、両手を自由に動かせなくなって、再び、原稿用紙へと回帰している。
これが、キーボードを通じた文章と、鉛筆書きの文章の違いなのだ、と言ったらば、言い過ぎだろうか。
小田嶋先生は、文体は身体的な条件に依存する「歩き方」や(野球の)「フォーム」のようなものだという。
メディアは身体の延長。
裸足なのか、スニーカーなのか、はたまたハイヒールなのか。
当然歩き方は変わってくる。
時には、紙の上に鉛筆を這わせてみれば、違う発想が生まれるのかもしれない。