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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

そして、それは「敵」なのか−人と機械(後編)

「ケンカとは、どうやっても勝たなければならないものだ。そのためには、相手の金玉を蹴り上げ、指を突っ込んで目の玉をほじくり出してやれ!」
とぼくは乱暴に言った。
息子の返事はこうだった。
「パパ、ボーリョクはいけないんだよ」」
神足裕司『パパになった男』主婦の友社, 1997, p.110)


勝負事に負けるというのは辛いことだ。
そして、勝ちにこだわればこだわるほど、負けた時の辛さは増していく。
周りからは、半ば願望を反映した批判も届く。
青木真也選手と長島自演乙選手が立ち技系と総合系のミックスルールで戦った際には、青木選手が立ち技系での戦いを避けたことで、大きな批判も上がったことを覚えている。そして、長島選手の勝利に対する歓声も。
いや、批判は敗者にだけ向けられるのではない。


それでもなお、「勝たなければならない」というのはどういうことなのだろうか。
はたして、そうしたものと対峙するということはどのようなことだろうか。
電王戦FINAL第5局、阿久津主税八段対AWAKEの一戦が、思いがけないような短手数(21手)で幕を閉じたあと、ニコファーレの椅子に座って、私は考えていた。


結果から言えば、今回の電王戦FINALはプロ棋士側から見て3勝2敗と、
団体戦形式が始まって3度めにして、初めて勝ち越すことになった。
その背景には、プロ棋士の膨大な研究があった。
時間の使い方、勝ちやすい戦型、読みの特徴。
その中には、人間相手に「勝ちやすい」戦い方とは異なるものが、含まれており、今回の第5局では、それが明確に表に出た。
奨励会員でもある開発者は、対局がその道に進んだのを見て投了した。
憤りと失望を隠すこともなかった。


与えられたルールの中で最善をつくすのはあたりまえだという、人がいる。
そのやり方が一番勝率を高めるのなら、そうすべきだという考え方だ。


一方で、それが「ハメ手」にうつるという人もいる。
ましてや、コンピュータ・ソフトは事前貸出だ。
こうした、プログラムの特性上、全く同じ条件を提示されれば、確率論の中でその道を選ぶことは十分な可能性がある。つまり、人間のように一度ハマったから、修正して、違う手を指そう、とはならないわけだ。


落とし穴にハマることがわかっている相手がいるからといって、落とし穴を掘ればそれでよいのか。
「美学」からそれを嫌う人もいる。
おそらく、「棋士」の中にこそ、そうした考えの人が多いだろう。


ではなぜ、そのような手を選ばなければならなかったのか。
プロにとって、ああした手を選ぶことがどれだけの無念さをともなうものなのか、私にとっては想像すらできないが、負ける「恥」と比べて、どれだけの大きさだったのか。
今までの敗戦の歴史を欠いて語ることはできない。
プロはやはり、第一義的にはその強さによって魅力を保ってきた。
事実、第2回電王戦後には、将棋から離れていった人もいた*1


電王戦がHUMAN vs. Computerと題された時点でこうなることは決まっていたのかもしれない。
途中からは、共存をうたい、「タッグマッチ」なども試みられたが、必ずしも成功したとは言いがたかった。


何も、将棋の世界の話だけではない。
テクノロジーによって、仕事が奪われているという議論は前々から存在するし、その処方として共存が提示されたりもしている。

機械との競争

機械との競争


コンピュータは進歩する。
それもものすごいスピードで。
ディープラーニング、という技術は、機械が自らどの項目を重視すべきかを発見してくるものだという。*2
それが、機械の改良に応用されて行ったら?
爆発的な発展が起こることは目に見えている。*3
では、人間はどこかに置いて行かれてしまうのだろうか。
そこに待っているのは、単なる失業なのか、あるいは、働かなくても暮らしていけるユートピアなのか。


しかし一方でこうも思えるのだ。
どこに機械を使い、どこに使わないか、という判断はしばらくは人間の手に残るのではないだろうか、と。
思えば、第5局の投了も、開発者の手によるものであった。
一見正常に動作しているようにみえる、高性能な機械の動作を、(ひょっとすると性能に劣っているかもしれない)人間が判断しなければならない。こんな主張は奇妙に見えるかもしれない。
しかし、今回の電王戦を見ていて感じたことは、メタなレベルで、ゲームの種類を判別して異なる判断の様式を(無意識のうちに)用いている人間の姿だった。
川上会長の「コンピュータと人間が競争するということがそもそもおかしい」というのと、裏表の意味であえて言うならば、
「機械との共存」は異なる次元に置いてしか、成立しないのかもしれない。


今日の第5局では、あまりにも早い決着にエキシビジョンマッチが組まれた。
AWAKEのあとを(角を打つ前の局面)から永瀬六段*4が指しつぐ形で。
終盤の妙手がいくつも繰り出される熱戦の末、阿久津八段が勝利した。
印象的だったのは、感想戦の様子だ。
エキシビジョンだったということもあってか。本当に楽しそうにいつまでも手を語り合う二人の姿が見えた。
機械との共存とは、こういうことなのかもしれない。


最後に、有名なコピペを一つご紹介しよう。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。

すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、
漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、
女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、
きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、
漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」

「お金持ちの不思議。 : ひろゆき@オープンSNS」2006.9.14 http://hiro.asks.jp/9161.html?thread=204489

*1:例えば、山崎バニラ氏はそれを明言した。「山崎バニラが語る今回の将棋電王戦について思うこと」週アスプラス, 2014.3.27 http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/209/209935/

*2:松尾豊『人工知能は人間を超えるか (角川EPUB選書)』2015.3などを参照。理解に間違いがあるかもしれない。

*3:シンギュラリティー(技術的特異点)などの議論が有名。例えば、レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』日本放送出版協会,2007.

*4:第2戦でSeleneに勝利している