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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

親子と将棋

先日、神足裕司の『パパになった男』から、ケンカに関する一節を引いたのだけれど、将棋の「ひっかけ」に関連した箇所もあるのを思い出した。
将棋連チャンで申し訳ないけれど(読んでる人もそんなにいないだろう)、広がりのある事柄だと思うので、少しお付き合いいただきたい。
それは、彼の息子が(無謀にも)小学生名人戦に出た時の事だった。

昨日の夜、戦術を授けなかったことを後悔した。引っかけ技のようなものを一つ教え込んでおけば、一勝くらいはできたかもしれない。
 でも、ぼくは助言しなかった。「自分が困っているときは相手だってつらいんだ」といった、勝負事の心構えも教えない。セコンド・パパになるのがイヤだった。
 これはぼくの教育方針ということになる。いま、ぼくが教えた大人の知恵で息子が勝てば、その場は二人ともうれしいかもしれない。が、結局は大きなものを失う。自分で道を切り開くという喜びを失うのだ。
 4才のときコロンブスの伝記を読んで「ぼく探検家になる」と言ったくせに、「探検家ってものすごく歩くんだぞ」と脅したらすぐ「じゃ、やめる」と即座に前言をひるがえした弱気な息子が、いまは「将棋のプロになりたい」と言う。
 ぼくは、助けるべきだろうか。
 ぼくは手助けできないことを知っている。
 英才教育ってものをぼくは嫌っている。
 …(中略)…
 ぼくの場合だったら、たとえば息子を、秀才雑誌ライターに育てることができるかもしれない。人間観察の方法を手ほどきして、お手本にバルザックを読ませ、描写の大切さを説く。出版社の編集者にヘコヘコこびるやり方も。
 そうやって、学校の読書感想文コンクールくらいなら金賞を取れるかもしれない。が、読者の胸を打つことはゼッタイにできない。勝負はテクニックではなく情熱の量で決まるのだ。その上、大人が手を加えれば、読むべき年齢に読む本の愉しみさえ奪われることになるだろう。

神足裕司『パパになった男』主婦の友社, 1997, p.107-109)


当然ながら、「将棋のプロに」などという言葉は簡単に翻されたものの、彼は今でも将棋を続けている。
そればかりか、雑誌に連載し、父親と一緒に本まで出した。
惜しむらくは、教えを受けなかったことだろうか。
人間観察のちからも、描写力もついぞ身につかなかった。
しかし、読むべき時に読むべき本を読み、その時どきを愉しんだのだろう。


さて、父親が病気になってはじめて将棋に勝って、喜んでいたのもつかの間。
すぐに抜き返されてしまった。
先日は、病気になってからはじめて居飛車を指したという。
病気になって以来の、三間飛車には戸惑いを覚えていたが、また一つ自分を取り戻した、ということだろうか。