白糸のこと
本郷三丁目の交差点から数十メートル。
赤い看板。
何でもない日に通った居酒屋だった。
焼き鳥の盛り合わせに、ニラ玉、たまに銀杏やエシャロット。
思えば、20歳になってすぐの日も、この店の3階にいた。
半期の講義終わりの親睦会だっただろうか。
私の(交際)経験(がない)などといったたわいもない話をしたことが記憶に残っている。
「えいひれ」というものを知ったのも、この店だった。
7年ほど大学にいて、大学に住んでいるとうわさされた先輩が、頼んでいたのだ。
今でも、えいひれを食べるとこの店の雰囲気を思い出す。
授業であなたにとっての教育部*1とは、というお題が出れば、真っ先にこの場所に向かった。
就活の連絡待ちをしたこともあった。
電話がかかってきたと思ったら、別の居酒屋からの予約確認だった。
ケータイを投げ捨てようかと思ったが、ビールと一緒に涙をのみこんだ。
赤かぶも、チムニーも、さくら水産もなくなって、学生のころ歩いた街が変わっていっても、その店はそこにあった。
同窓会なんかの帰りに寄ると、2階のお姉さんが、嫌そうな顔をしながら接客をしてくれた。
そんなこの店も、ついに終わりの時を迎えた。
1月の終わり、店先に張り出された閉店のお知らせは、ネットをかけめぐった。
閉店を前にして、学生時代をともに過ごした、先輩、同級生、後輩(あと先生も)が、この店に集った。遠く北海道から来た人までいた。
あの頃と同じように、たわいもない話をして笑い、立場の違いを忘れて議論を交わした。先輩は今でも、えいひれを頼んでいた。
水と間違えて焼酎を飲んでいるうちにもうろうとしていった。
閉店の時間になって、本郷の交差点に出た時には、すっかり出来上がっていて、次の日に向けた後悔を始めながら、何もこんなところまで昔と同じでなくても、と成長しない自分を少し恨んだ。
顔をあげると、二次会に向かう先輩たち。見慣れた光景。この店が作り出してきた、こういう瞬間は二度と訪れないのかもしれない。そう思うと、こみ上げてくるものがあった。
さよなら白糸。ありがとう。
*1:所属していた副専攻のようなもの