「社会」 平等と公正
この本に目を通しました。
ゼミの課題です。
このシリーズはなかなかいいと評判です。
ようするに中身があるということです。
横書きなのとあいまって疲れてきたので
内容を理解しきっているわけでもないのですが。
社会(科)学という学問が前提としている
「社会」なるものについて、言葉の使用の変遷を追いながら
本質的な意味に迫っていくというような内容だと思います。
ルソー、ホッブズからニーチェ、ルーマン、ハーバマスまで
一通りの重要そうな人物に触れられるというお得感があります。
その中で多く取り扱われるのが「平等」という概念についてです。(社会、という言葉が元来「福祉」というような意味を持っていた。*1ことから)
本の本筋からは完全に外れますが、「平等」について考えたいと思います。
よくこんな例えが使われます。
100m走をすると考えて・・・
1.スタート位置をそろえる
2.ゴールの位置でそろえる
3.ハンデとしておもりをつける
1.は機会均等ということですね。
日本国憲法で言われる「平等」もこの類でしょう。
近代的、といわれる国家では前提なのではないでしょうか。
しかし、これだけでは足りません。
スタートラインをそろえたところで、もともとの能力に差がある以上、落伍するものが出てくる。
それを放置することは社会的にまずいだろう、ということで救済が与えられます。これが2.ですね。
これを極限まで推し進めると「社会」主義になるのでしょうか。
最後のものは、2.と近いですが、スタートの時点で(境遇的な意味で)不遇なものを上に押し上げるための手段です。
アファーマティブアクションとか。人種枠とかそういうやつですね。
さて、この本の中では、ルソーが絡んでくるのですが・・・。
私はまず、「平等」と「公正」を分けて考えた上で、それぞれをどう適用していくかが問題だと考えます。
「平等」というのはスポーツで言えばルールの部類でしょう。
対して「公正」は適用つまりレフェリングの問題であるといえると思います。
さまざまなルールや何かが、少なくとも社会の成員*2に対しては、「公正」に適用される必要があると思います。
が、しかし、こと平等ということになると、「どこまで」平等にすべきなのか、というのは結論の出ない問題です。
2500年も昔から、世界でもっとも頭のいいような人たちが、頭をひねり続けて答えが出ない問題です。
私などが挑戦することもはばかられます。
マルクスの共産主義はUtopiaですが文字通り実現可能性がありません。
となったときには、やはり、自由を基調にして、最低限度の生活の保障を与えること、が妥協策になってしまうでしょう。
あとは、マートンがアノミー回避の方策として提出した、選択的目標*3の導入。
思うのですが、
最低限度の幸せはお金にあるが
最大限の幸せはお金では得られない。
いかがでしょう。
単純にお金に惑わされるなんてかっこ悪い、という人もいます。(内田樹とか。http://blog.tatsuru.com/2007/07/24_0925.php)
人生金じゃないだろう、そうだろう。ってこと。
でも、話題の(?)赤木智弘さんは反論します。
http://www.journalism.jp/t-akagi/2007/07/post_229.html
金以外のものさしなんて、差別につながる。
俺に今必要な「幸せ」は明日生きるための、両親が死んだ後も生きていくための金なんだ。
それでは、十分ではないと思うのです。
金がなくて困っている人に、金がなくても幸せでしょう、なんてただの欺瞞。
ただ、金がありあまっても幸せじゃない人もいるのではないかと。
「不幸とは急激な変化のことである」とはよく言ったものです。
話がそれました。
平等*4は、金という尺度だけでは測れません。
それは幸せの指数でもあるのでしょう*5からはかれません。
ただ、その最低限度を保障するとき、それは金銭でいいのではないかというお話でした。
まぁ、いってもせんのないことなんですがね。
いつにもまして駄文です。