正論=正義?
世の中には「正論」といわれる論調があります。
たとえばこれはどうでしょうか。
(不良が更生したのを知って)両津勘吉「えらいやつってのは、はじめからワルなんかにならねえの!正直で正しい人間がえらいに決まってるだろ!・・・(中略)・・・ごくふつうにもどっただけなのにそれをえらい 立派だと甘やかしているでしょう」
(秋元治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』より)
つまり、一度不良になった人間が、更生するとさもすばらしいことのように語られるが、本質的には、はじめからこつこつやってきた人間のほうが偉いはずで、それは正当な評価ではない、という論調です。
批判の余地はあまりないでしょう。いわゆる正論です。
その視点にたったとき、この本はどのように見えるのでしょう。
ある人に泣けるから、と勧められて、読まざるを得ない状況で読みました。で、考えたことを少々。
この本は、小学校のときの転校・いじめそして自殺未遂、そこから先、不良になり、極道の妻にまでなった著者が、司法試験に一発合格するまでを著述するノンフィクションです。
確かに、この人に感情移入して読むと「泣き所」はいくつかあり、うまいつくりだといえます。
しかし、上のような「正論」に立ち返ってこれを見たときどうでしょう。
恨みつらみをかさね、両親に暴行を加え・・・
最後の最後で、報いたとはいえ、「偉い」といえるかというと疑問が残るといえるでしょう。
この一点において、この作品は批判されるべきでしょうか?
私は否であると考えます。
「正論」がすべてではないこと。
そして、これが社会に対してよい影響を与える可能性がありうること。
が、理由です。
まず、二つ目から説明します。
マートンなどの古典的な社会学の分析によれば、文化的な目標(金銭・名誉など)に至る制度的に許された手段(よい高校、よい大学、よい会社、など)が不適合であるときに、逸脱行動が起こるとされています。
教育のひとつの効果は、自己実現によって、逸脱を怒りにくくすることだといわれますが、まさに、この本はこの機能を果たしうるように思うのです。
それが、どれほど大きなものかはわかりませんが、
「成功」へいたる制度的な手段がないわけではないことを知らしめることによって、修正をかけることが可能なのではないかと考えます。(ただし、こうしたものが逆に文化的目標への強迫をつよめ、結果逸脱が起こるという可能性は捨て切れません)
このように、そのもの自体の論理的な価値云々とは別にそれが社会的な機能を果たすことはよくありえます。
それをひとつの理由として「正論」がすべてではない、ということがいえないでしょうか。
近年、「ウェブ炎上」なる現象についての言及が多く見られます。(詳しくは、荻上チキ『ウェブ炎上』など。キャス・サンスティーンのサイバーカスケードなどの概念を用いつつ、説明しています)
ここで見られるのは「正論」=道徳の過剰、であるように思います。
法律や一般的とされる道徳にそむいたものは、(それが些細なものであっても)徹底的にたたく、それが道徳の過剰です。
果たしてそれは「正義」であるといえるのでしょうか。
「正論」はときとして、いやほとんどの場合、暴力でしかありません。
異なる価値規範を持つ人々に対する「道徳の暴走」は悲しい結果しか生まないのではないでしょうか。