読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

1個前、2個前のエントリーがひどい気がする。
酒が入っていたのが敗因と思われる。
少し補足をば。


「学問の意味」について。
「抽象的な思考」について書いているが、
僕は「抽象的」であることと、「衒学的」であることはまったく違うものだと思っている。
いくら抽象的になってもよい。難しい言葉をちりばめてもよい。
でも、それが目的になってはならない。
ジャーゴン(隠語)を文章の中で正しい位置におけることが学問ではない。
その先に何かを。
何ものかを目的として。


「テレビの嘘」についてはまぁ割愛。


さて今日は

高校のとき、Z会の小論文の課題で出て
ちょっと読んでみたことがあった。
刺激的だったが、難しい。
「成長」をはかるバロメータになるだろう。


社会学入門の対になる本。
印象的なのは、「二重の剥奪」の話。
世界銀行による貧困の定義である「1日1ドル以下の収入」に
意義をとなえる。
たしかに、日本の街中で1日1ドルだったら貧困層かもしれない。
しかし、中国の山奥で自給自足してる人はどうだろう。
一種疑いないような定義に異議をさしはさみ、
その裏にある「開発主義」を糾弾する。
「いい方向」に政策は進むのかもしれないが・・・
その先にあるのは、更なる剥奪なのかもしれない。


にもかかわらず、彼は情報化社会における
資本主義にある種肯定的ともいえる評価を下す。
有名な「ココアパフ」のくだりだ。
原価から数十倍の価格で消費者に物を売るとすれば
それは普通「搾取」と断ぜられる。
しかし、彼は逆に、飢えた人からの収奪が数十分の1になったのだと
解釈する。資本主義を前提にしたとき、利益を上げる方向に人は踏み出さざるをえない。しかし、それが情報化の時代(すなわち「差異」を売る時代)になれば、他を「収奪」することなしに可能なのだ。


見田社会学には多くの「信者」がいる。
とりこになるのもわからなくない。
彼の自明性に疑いの目をむける手法には感嘆の声を上げざるをえない。