色っぽさと労働と
を読んだ。
私のつたない読みを筆者が許すのかはわからないが
感じたことを書いてみようと思う。
(きっと許してくれるだろう。彼は1流の表現者だ)
資本主義社会における労働、を思い起こさせる。
男はいつの間にか、あなぐらの中に入れられ
自らの能力とは無関係、と思われる、一個の歯車としての
労働を強いられる。
これは現実と乖離した描写だろうか?
なるほど、現代日本にはこうしていきなり監禁して
労働させるような事態は起こらないかもしれない。
しかし、マルクスの描いた「疎外」の状態はまさしくこうしたことなのではないかと私は思う。
現に、近代社会において私たちは歯車だ。
「私」はかけがえのないものとしては認知されず
いつ死んでも(いや「壊れて」も)代わりはすぐに届く。
資格をとって、他の人との差異化をはかっても無駄である。
本質的に歯車であるという事実からは逃れられない。
むしろ、普段「労働可能な」という資格が不可視のものにされていることを考えれば(その資格は歯車たるに十分な資格である)、自らを「歯車」として再規定するという行為であるともいえよう。
しかし、この話はその絶望で終わるのではない。
主人公の男の「希望」は、共に働く女との「性」の間に見られた。人間において本質的なのは「労働」だけではない。
最後に、いわば主人公が逃走を放棄するにいたって、
これは、キュブラー・ロスの「死の五段階」*1を思わせる。
人が生きるということはどういうことなのかを、虫けらと対比しながら描き出した作品だともいえるのではないだろうか。
しかし、なまめかしい。
全体に、生の魚をさばいているときの感じに似た色っぽさを感じる。
口に入れてみれば砂の味なのだが。