メディアの役割とは
コミュニケーションをするとき
私たちはメディアを必要とします。
それは、脳みそと脳みそを直接つなげないから、
ではありません。
きっと脳みそ同士をつないでも私たちは
「言葉」というメディアを必要とするでしょう。
そして、そこでもしイメージの共有が行われるのだとしても
解釈に差が生まれ、そこに横たわるコミュニケーションの不可能性はより鮮明なものになるのでしょう。
北田暁大「ヴァルター・ベンヤミン 反メディア論的省察」をよみました。
彼は、ベンヤミンとマクルーハンを切り分けます。
マクルーハンの理論は画期的でした(論証不十分といわれればそれまでw)。いままでただのパイプでしかなかったメディアに焦点をあて、そこに意味を見出したからです("メディアはメッセージである! ")
普通、ベンヤミンはその祖として見られます。
しかし、そこには徹底的な違いがあると北田は言います。
メディア論者たちはメディアをあくまで「メッセージ」の次元に落とし込んで、意味論的解釈をするに過ぎないのだと。
ベンヤミン(ルーマン)はメッセージとメディアの不可分性とメディアにおいて実現するメッセージをみている・・・。
たしかにそうです。
コミュニケーションが成立するためにメディアが必要不可欠
(メディアを欠いたメッセージは成立し得ない!基づけ関係?)
ならば、メディア(非常に広い意味で)はメッセージの次元に落とし込んで解釈される後付のものではないでしょう。
そうこのブログという媒体を持たねば
この駄文は存立しえず
「書籍」や「新聞」でないという
そこにおいて、その差分において
これらの文章は新たな意味を持ちうるのでしょう。
広い世界。一人くらいはこれを読んでくれるでしょう。