読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

メディア・リテラシー

先日、母校に教育実習のための面接に行きました。
自分の高校が大好きなもんで、
戻りたい、ってのが第一の動機で実習に行く、というなんとも
不純な感じです。


そのとき、あなたが大学で勉強してることをどう教科に生かせますか(私は高校の公民科)?と聞かれました。
その答えのひとつとして、メディアリテラシー、というものを挙げました。


メディアリテラシーというのは、
メディアが伝えるものがそこにおいて構成されたものであることを認識し、批判的に読解すると共に、自らも表現していくというメディアに関する「読み」と「書き」の総合的な能力のことです。
それが、倫理観と結びついて語られすぎていること、については以前取り上げたと思います。


あくまで能力、であるのだから、「善悪」とは本来的には離れた場所にある。高度なリテラシーを持ってすれば高度な「ウソ」をつくことだって可能になる。そういうものなはずです。
(もちろん、使い手が高度な倫理観を持っていることは否定されるべきではありませんが)
にもかかわらず、テレビや新聞は「嘘」をついているからわるい、という単純な議論になりがちです。
それは、民主的な社会の必須の媒介者としてのメディアと市民の関係性としてよろしいものとは思われません。


を読みました。
著者とは、知り合いの知り合い位の関係にあるはずですが。
もちろん、相手は私のことなど知らないでしょう。


さて、この本を読んで、メディア・リテラシーと倫理に関するつながりは、やはり、その発展当初あった、「弾丸理論」てきなマスコミュニケーション理論を背景に、文化防衛的な考え方に由来するものだろう、という確信をあらたにしました。
また、こうしたつながりや、メディアのいたずらなな批判が
日本だけに限られることではなく、先進国であるイギリスやカナダでも見られることであることがわかりました。


しかし、少なくとも彼らはメディアリテラシー教育を一種制度化することで、次世代以降の成長を担保しています。
日本では、菅谷さんをはじめとする人たちによる運動
(cf.http://www.mell.jp/など)
はあるものの、教育において制度化されているとは言いがたいです。
また、得をする人(金銭的な意味で)がいないので
そこに向けた動きも大きいとはいえません。


最近、フィルタリングやケータイ所持禁止などの議論がかまびすしいですが、これがメディアの問題としてとらえられることはあまりありません。結局はパターナリズム的な発想で、子どもを守るためならしかたない、という程度の議論に終わっています。しかし、これは(新聞を発行停止にするのと同じような意味で)言論統制であることを忘れてはならないでしょう(先生の受け売りですがゆるして)。


対症療法的に、ただ使えなくするのではその先一切の発展の経路をたつことになります。
能力としてのメディアリテラシーを身につけさせる、あるいは情報の収集と取捨選択の能力を身につけさせる、そうした教育を行うこと(制度化すること)こそ喫緊の課題なのではないでしょうか。