読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

Think from Akihabara

秋葉原の痛ましい事件。
もう1週間たちますか。
書く気もおきませんでした。
もしかしたら、よくあること、なのかも知れませんが。


ひと事だとはおもえない。
2重の意味で。
加害者。
私はこうして恵まれて、PCの前に座っているけれども
近代社会はいつでも誰でも入れ替え可能。
もしかしたら彼のいすには僕が座っていたかもしれない。
そして、未来の僕がそうしないとも限らない。
(現時点でやろうとはまったくもって思いません)
これは想像力の問題。


被害者。
知り合いの知り合いが亡くなったらしい。
秋葉原なんてうちの大学の近所だ。
まさにひと事ではない。
これは現実としての問題。


もちろん彼のやったことは許されることではない。
罰を受けるのは当然だろう。


しかし、なにか考えられることがあるのではないだろうか。
許せない!と叫び、
アニメが悪い・ゲームが悪い、と
相変わらずの呪術的な分析をして
(ゼウスが雷を投げている、と同じレベルで)
それでは、何も進まない。


格差社会のせいだ、ということも簡単だろう。
もちろん、それは大きな影を落としていると思う。
彼の人生においての上昇不能性は底なしの絶望を与える。
しかし、それを「社会のせい」と直結させて、
無差別殺人に及んでしまうという回路ができあがるには別の理由があるのではないだろうか。
「社会のせい」ではあるのだ。
しかし、過度に「社会のせい」を主張してはいけない。
それは、自分の存在を、主体を無に帰すことだ*1


世界でも話題になってしまったらしいこの事件。
なにかモノを規制したとしても
社会や教育や、そうした何かを変えなければ
どうしようもない。
そんなことを訴えてくるように感じた。


単なるメモ書きのレベルにとどまっているのはいつものこと。

*1:構造主義的な意味で