Think from Akiba 2
一昨日に続き。
所属しているコミュニティによるのかもしれないが
この事件についての語りはほとんど「ジャーナリズム」の問題をともなってなされるように思う。
わけてもよく聞くのは「やじうま」の問題だ。
いわく、手当てもせず、救助もせずに、ケータイで写真を撮っている。
やつらはなんなんだ。
今に始まったことではない。
何か事故があれば、人だかり。
葬式のときにさえ故人をケータイで撮る人がいるという。
「彼ら」*1と「ジャーナリスト」のやっていることの違いはなんなのだろう。
ケビン・カーター*2を例にとるまでもなく、死に行きそうな人々にカメラを向けることなど良くあることだ。
何かの折には、命が犠牲にされることもあるだろう。
やっている行為に差はそうない。
私はそう思う。
しかし、歴然たる差がある、とも同時に思う。
それは「覚悟」である。
時として人を死に至らしめるという覚悟。
時として一国を崩壊させるという覚悟。
伝えるという行為はひとつの「暴力」であるという自己認識。
人を傷つけるということを無視するのではない。
わからないのでもない。
それでも尚「伝える」「表現する」そのことに意味を見出し、
自らを傷つけてでもそうし続ける覚悟こそが
彼らの間に線を引く。
では、今のマスメディアのやっていることは「ジャーナリズム」だろうか。
という問いは必然的に立ち現れる。
すべて、ではないにしても、それは瑣末なことに囚われた
視聴率競争(部数競争)にしか見えない。
これがただの視野狭窄であることをいのる。