読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

教育「の」平等/教育「と」平等

友人と話していたら、けんか気味になってしまったので
ここに当たり散らしたいと思います。
教育/平等についての話。


教育/平等を考える際に
教育「の」平等と教育「と」平等を混同してはならない。
教育「の」平等とは教育とその成果(知的資源の獲得)における平等性のこと。
教育「と」平等とは、教育の結果生まれたり再生産される格差についてのこと。
その二つは同じことのように見えるかもしれないが、厳密には別次元の話。


機会の均等は必要だろう。
情報化が進み、「成功」が誰の目にも明らかな状態になっているにもかかわらず
そこに到達する手段のない社会では、アノミーが発生する。
それが公共の福祉に供しないことは明らかである。


教育の平等において、結果の平等は追求できない。
そこでできるのはせいぜいセーフティネットをかけることだ。
教育指導要領は最低限度のもの、といいながら実質的には、そんなものマスターしていない。高校時代の友人は、卒業する直前までappleとつづれなかった。
足りないのは制度ではなく、その運用能力なのだろう。


反対に教育と平等では、機会均等自体を確保することが難しい。家庭環境に学習環境は大きく依存してしまう。親の収入と子の学歴はきれいな相関関係を示すとの話もある。*1
それは、公正でないともいえるだろう。
スタートの時点の偶然で、初期パラメータが大きく変わってしまう。*2
選択領域*3が生まれによって与えられないのは公正とはいえないだろう。


しかしながら、この先で問題になるのはどこまでを
「個人」の能力とするかというアポリアである。
もし、生まれた瞬間全員がタブララサでそれのみが個人の能力だとすると、格差を前提にすれば、誰がどうなるかは完全にランダムで決まってよいはずである。
もともとの能力に差があって、というなら大衆教育社会的な幻想はある意味で崩れることになるし、親の資源、を個人の能力として導入してはならないという結論を導くことはできない。


結局のところ、今の日本は学歴社会で
勉強と収入がつながっていくけれども
それが、いいとか悪いではなく、
格差を是正する役を教育だけに負わせるのはこくだし
無理だ。
教育にできるのは社会のルールを教えることではないだろうか。
それは規範ではなく、現実だ。
どうすれば成功できるのか。
そのルールを最低限知っておくことだ。
それは未来へとつながる。


完全に書き殴り・・・。


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4 機会の平等、結果の平等、面の平等、個の平等
3 B
5 静かな革命による「平等」の実現

*1:正直そうとも限らない気が。ボンボン校でしたが、むしろできない人の方が多かったし。ま、あくまで統計ですね。

*2:だからといって生まれたばかりの子をシャッフルしろというのは違う。それを言うなら生まれた時点でシャッフルされたようなものだろう。

*3:選択=自由を、選択領域・選択チャンス・選択能力に分類する。