読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

振る舞いを規制されると言うこと

私たちの行動は様々なものによって規制されています。
それは目に見えるものもあれば、目に見えないものもあり。
もちろん、このインターネット上にも規制はありふれたものです。
間違っても「無法地帯」などと思ってはなりません。


そういった規制について非常にわかりやすくまとめているのが



批評家東浩紀の著書においても頻繁に引用されています。
著者レッシグが私たちの行動を規制するものとしてあげるのは4つ。


1.法
2.社会規範
3.市場
4.アーキテクチャ


それぞれがそれぞれに影響し合いながら、人間の行動を制限します。
なかでも彼が問題にするのはアーキテクチャ
他の三つの規制が、その内在化を必要とするのに対し
アーキテクチャは、直接的に私たちの行動を規定します。


法を破ってはいけない→破ったら捕まる
といったプロセスを必要としないのです。
現実世界で言えば、バリアフリーのなっていない駅。
車いすの人は階段をのぼれない。
そういうことです。


インターネット世界においては
このアーキテクチャはより広範な威力を持ちます。
なにせプログラマor設計者は“神”です。


現在のインターネットアーキテクチャには、法的制御がほとんどありません。
技術者の手によって、自由自在に操れる世界がそこに存在します。そして、多くの人は、その決定プロセスに関われないまま、規制に対して従属することになるのです。


だから、レッシグは言います。
法で規制せよ、と。


非常に逆説的なことに思われます。
自由な世界だと思われている
「インターネット」に
がんじがらめの代名詞「法」
を導入せねば、自由が失われる、など。


しかし、かれの明晰な語り口が
私を説得してしまいました。
もう少し読み込まねば・・とは思いますが。


工学化が進んだ世の中で
いろいろなことを考えていると
「設計主義」に陥りがちです。
よく設計されたシステムの中で生きる社会。
きっと「楽しい」でしょう。
しかし、私は、擬制としての「個人」を信じ
「公共」を創し、集団の行く末を「集団」が決める
ような社会に生きたいのです。


ある価値の絶対性を回避するために・・・。