読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

インターネットの革命と反革命 ipad/電子出版/フリーの終焉(下)

境さんの本も7割がた読み終わったのでホントは読み終わってから書くべきかもしれませんが、まぁ、サクっとまとめちゃいますね。


AppleAmazon(あるいはGoogle?)といった私企業が情報のでもとを独占してしまうことで、
彼らに大きなコントローラビリティが与えられてしまうという問題です。
実際、iPod/iPadにおいては、さまざまな表現について規制が見られます。*1
私企業に対して、情報を「検閲」できるような大きな権限を与えてよいのか、というのは大きな課題とみなすことができるでしょう。
これについて、境さんは「書店が書棚を作る自由」*2を挙げます。
この自由に関しては多くの人が納得するでしょう。iPadとの大きな違い(と思われるの)は書店はたくさんあることです。
Aという書店で買えなかったとしても、Bという書店では買える可能性がある。
また、多くの書店で置かれなかったとした場合にも、一種の「社会的合意」("常識的に考えて")が成立したとみなすことができる。
しかし、実際には、iPad上でもi Book Store以外にも書店を開くことはできる。つまり、たくさんの書店が並立する状態は可能である。
境さんが主張するのは「iPad上で」Appleがよしとしたものしか読めないのであれば、断固戦うべきである。しかし、i Book
Storeでは選ばれた本しか買えない、というのであればバランス感覚として許容すべきではないか、ということ。


また、こうした「検閲」の恐ろしさとして、”1984”*3的であるという点が挙げられます。
つまり、修正や増補があとから可能であり、しかもそれを検証するすべが与えられていない。検閲されている感覚を奪い去られた検閲と呼ぶことができるかもしれません。
こうした後出し的な「検閲」についてもある種のバランス感覚が肝要ということになるのでしょう。


#後述のとおり、この点は紙の本との大きな相違であり、ある意味ではインタラクティビティとトレードオフであるということができるかもしれない。
こうした点は、人文科学において電子書籍を扱う際に大きなポイントになってくるのではないだろうか。


ここで会場からの質問。「電子書籍はいつまで読むことを保証してくれるのか」
境さんが経済産業省という立場からコンテンツ産業を考えるにあたって、
そもそもコンテンツを買うとはどういうことであるか、ということに対して出した一つの考え方は「本やCD/DVDなどを買うということはコンテンツを見られる(聴ける)債権を買うということ」だということです。
その観点からするとこれはとても大きな問題。もちろん限界はある*4ものの基本的には契約上解決する(i.e.機種変更しなければ半永続的にDL可。1ヵ月の間は何度でも可など)問題であろうということでした。
もちろん、それには独占の問題も絡み、不当に消費者の側が不利な立場に置かれるような場合にはまた方策を考えなければならない、とのことでした。


あわせて紙の書籍の生き残りに関しても質問がありました。
これに関しては、紙のコストダウンや書店でのオンデマンド、など、いろいろな変化もありうるとしながら、基本的には生き残るだろうとのことだった。
また、電子書籍に関しても最初は「大翻訳運動」よろしく現状のコンテンツを電子化するだろうが、のちには電子でしかできないような *5ものへと変化していくだろうとのこと。


#「電子書籍」という名前に引っ張られがちだけれども、今迄のように文字と動かない写真や挿絵だけで本が構成されるかというとそれはありえないだろうと思います。
しかし、そうなってきたときに「書籍」というのはパッケージングの問題だけなのでしょうか。例えば、それとWebサイトの定義上の違いはなんになってくるのか、非常に難しいと思います。
官庁界隈では中間フォーマットを決めてどうこう、という話も聞かれるようですが、実際にはWebサイトなどともフラットに考えるべきではないかと思います。「テキストデータだけあればよい」という読者だっていっぱいいるでしょう。
普通に生きていく分にはそんなものがどうなろうと、問題ありません。
しかし、私にとっては非常に内向きな問題が生じえます。
「NDLで何を収集すればよいのか」問題です。Webサイトなども含めて収集するとなれば確実にストレージが不足する。しかし、一方で、「選ぶ」*6ことになるならば、国家による「良書/悪書」の選別ともなりかねず、非常に難しい問題が発生する。
こうした正統性(多くは社会的合意)をどこから調達するのかというのは実は大きな問題ではないかと思うのです。
あと、いつまで見られるのか、事後検証性という意味で言うと、毎日Waiwai問題はすでに消されてしまった(事後検証が不能)という点でひとつの事例となります。


次に話題となったのはGoogle Booksと国立国会図書館による書籍の電子化の問題です。
なぜ、Googleがやると駄目で、国会図書館がやるとよいのか。
結局ここに関しては「納得できるか」の問題だとされました。
図書館に関しては著作権上においてもある種特殊なポジションにあることが確認されました。特殊であるというのは、良くも悪くも、ということですね。


次に出版社の機能をどう代替するかという話題に移りました。
外から見ると単なる中抜きのように見えなくもないのに、コンテンツクリエイターが口を揃えて編集者の必要性を説く。
やはり、編集者の役割というのはバカに出来ないものがある。
しかし、筆者と書店ないしはAppleの直接契約”も”成立する環境になったとき、編集者の再生産システムを真剣に考えなければならない。*7


#確かに編集者の機能は重要だと思うし、そうありたいとも思っているのですが・・・。編集者にもいろいろなバージョンがあるということは考慮すべき点かと。話題に上がった漫画や小説の場合は赤を入れながら編集者が作家を育てていくというかるちゃーがあります。しかし、社会科学や評論系では文章に赤を入れることなど殆ど無い*8ということもあります。あるいは、リサーチやデザインを主にやる人もいます。そういうものを十把一絡げに「養成」といっても難しいですよね、と。


あとの部分は自分の弱いところで自信がないのでトピックだけいくつか。


Kindleの強み=Amazonが本屋であること
1.購買動向がわかる
2.本好きのユーザーをたくさん持ってる
3.ポチっとすることを習慣付けられてる。


AmazonAppleは根っこを持ちながら広げている。
根っこはコンピューティングであり本屋。
そういう視点からするとKindleiPadはぜんぜん違うもの、ぜんぜん違う思想に基づくもの。


・東京都の児童ポルノ規制(非実在青少年)は変なロジック。
全く無検閲のショップ・プラットフォームという公益団体をやる人がいてもいいのでは。


#そうじて面白かったです。だいぶ端折ったのでしっかり見たい人はUSTreamで。最初の方でマスメディアに税金投入するのはおかしい、って話が出てて、そりゃそうで賛成。ただ一方で表現だったりジャーナリズムの場・生態系を以下にして構築すればよいか、というのが今最大の関心事。

*1:話題に出たのは『働きマン』の入浴シーンや暴力シーン

*2:本屋が置く本を選ぶ自由

*3:G.オーウェルディストピアSF小説から。また、『1984』はKindleで販売許可を得ていないのに販売されたとしてユーザーの端末内データを遠隔消去された

*4:出版社が倒産するなど

*5:雑誌をアプリで表現など

*6:網羅的収集を大義とした納本制度に反して

*7:OJTの場をとっても今後どうつくっていくかは難しい

*8:アジェンダセッティング等が仕事