どこにもないけど、誰にでもあるもの-『東大駒場寮物語』を読んで
立て看板に、ペンキ、スプレー缶や模造紙。
いつからあるのかわからないような私物のジャージ。
落書きで埋め尽くされたロッカーはもとより、ボロボロになったソファーの上にまで、所狭しと置かれた物の中、購買部で買った弁当のニオイが立ち込める。
ゴキブリがでた時には、手近にあったオレンジ色のカラースプレーを書けてみた。
オレンジのゴキブリが逃げていった。
何をそんなに一生懸命になっていたのか、あるいは、何がそんなに一生懸命にさせていたのかはわからないけれど、「他のどこにもない特別な時間」を過ごしたという実感があった。
しかし、その場所も今はない。
母校の校舎は、創立100周年を迎えて建て替えられた。
当然、狭苦しくて、汚くて、夏には地獄のように暑かった、あの生徒会室はもうないわけだ。
思えば、私が入り浸っている場所は、いつもゴチャゴチャとした吹き溜まりのようなところだ。
大学時代によくいた部屋もゴチャゴチャと汚かった(あるとき、掃除をしていたら全共闘時代の遺物と思しきガリ版刷りのビラが出てきた)。
いや、何も汚いことは良いことだ、と正当化したいわけではない。
私が汚いところにいて落ち着くのはもっぱら生育環境のせいだろう。
こんなことを思い出したのも、この本を読んだからだ。
私が入学した頃には、既に駒場寮はなかった。
確か、1学期の終わりごろには、新しい食堂がオープンしていたように思うけれど、東大にさしたる関心もなかった私は、そこにあるモニュメントの意味すらもしらなかった。
そこには、かつて「駒場寮」があったのだ。
「渋谷から歩いて15分で行けるスラム」と称され、多くの学生(とたまにそうでない人)が自治と自由の中で暮らした。
筆者は、元駒場寮委員長。
豊富な資料と実体験から語られる、明治大正の昔から、筆者も参加した存続運動、そして廃寮に至るまで、駒場寮とそこに暮らした人々の「青春」の物語は、その場に漂う空気をも感じさせる。
「ここでしかあり得なかった経験」が、実は他の多くの場所で、多くの人に存在するのだと気づいたのはいつごろだっただろうか。
筆者やその周囲の人々の行動に、少なからぬ共感を覚えるのは、私が同じ場所に通っていたから、というような理由ではない。
それはきった、全く別の場所で起きていた「私」の出来事を追体験させてくれるからだろう。
昨年のホームカミングデーの日。
現役の学生たちとの交流もそこそこに、学生時代から通い慣れた店の三階に上がり込んだ。
ボツボツと人が集まり、賑やかになってきた頃、下から上がってくる人影が見えた。
日中に、駒場寮のイベントで見かけた少年だった。
「ああ、やっぱり」
昼間一緒にいた後輩と顔を見合わせ、また、盃を傾けた。