読書は人間の夢を見るか

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主観のマンションー森達也『FAKE』における八五郎

「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」

落語「粗忽長屋」のオチだ。

粗忽長屋」というのは粗忽もの*1二人が、行き倒れを自分だと勘違いして…という話。

普通に考えれば、ありえないこんがらがったような話だ。

人間国宝となった五代目柳家小さん氏も、粗忽ものを扱った落語の中でも難しい話である旨をマクラで語っている*2

 

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(「粗忽長屋」の舞台は浅草寺近く)

 

立川談志氏は、落語「粗忽長屋」を「主観長屋」として改作したという。

曰く「あまりに主観が強いと、人間の生死までも判らなくなってしまうというという、物凄いテーマを持った落語」*3ということである。

 

森達也監督の『FAKE』*4を見終えて、ふとこのオチが頭に浮かんだ。

 

『FAKE』は、「現代のベートーベン」「全聾の作曲家」などとして売り出しながら、実際には作曲の多くを他者に委託していたこと、全聾ではなかったことなどが発覚し、2014年大きな騒動となった佐村河内守氏とその家族をとったドキュメンタリー映画だ。

私は、佐村河内氏には、大した興味はなく、騒動になるまで佐村 河内守(さむら かわちのかみ)だと思っていたくらいで、かの森達也作品とはいえ、楽しめるかどうか不安に思いながら映画館に向かった。

 

杞憂だった。

夫妻と猫の佐村河内夫妻に、森監督、そして、マスメディアの面々。

メディア批評にも、メディア批評批評にも見えるやり取り。

佐村河内氏の「人間的な」、あるいは「被害者としての」側面。

そして時に見せるコミカルな姿。

ほとんどがマンションの中で撮られているにもかかわらず、飽きを感じさせない。

 

しかし、次第にモヤモヤとしたものが頭をもたげてくる。

「弱弱しい一個人(家族)に対するメディアスクラム」、あくまで攻撃的なライター。裏切ったゴースト。そして「証明」。

わかりやす過ぎるほどにわかりやすいストーリーが展開されているにも関わらず、抜き取れないトゲが挟まっているような感覚。

そこに現れるのが、ラストシーンである。

いったん収束しかけた物語が、これまでの場面場面に仕掛けられた違和を回収しながら、散じていく。

 

森監督は、ドキュメンタリーは「主観」だ、ということをたびたび主張してきた。

対象に干渉し、見せるべきものを見せる。

ちょうど10年ほど前に作られた「ドキュメンタリーは嘘をつく」(テレビ東京)でもそのことが鮮やかに示された。*5

 

『FAKE』で描かれたのは、佐村河内ファミリーの「主観の王国」である*6

描いたのは森監督の「主観」である。

しかし、その「主観」はまた、見る者の主観へと開かれている(同調への「圧力」を伴うものではあっても。)。

「観てるのは確かに「主観」なんだが、それを「観てる」というのは一体…」

 

 

 

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