生態の監獄―『セーラームーン世代の社会論』を読んで
「ゆとり世代」と呼ばれてきた。
2002年に学習指導要領が改定されたことがその遠因になっている。
週休2日制が完全施行され、絶対評価に。総合の時間も導入された。
いささかセンセーショナルな形で言い広められたことには、
―風評被害だと思うが―
円周率は3と教えられている、というものもあった。
私の通っていた学校では、幼稚園から週5日制だったのが、
それを機に週6日に変更された。
そうでなくても、私たちの生まれ年(1987-88)で変更されたのは、中学3年生から。
多少、カリキュラムから落ちた部分はあっても、人格形成にかかわるような部分で、
大きな影響があるとも思えない。
そもそも、学校でやったことを覚えている人がどれほどいるというのだろう。
…学校でやったことを覚えているだけで物知り扱いされる、という逆説的な体験を多くしてきたものだ。
ついでに言えば、就職の時期はリーマンショックの直後だった。
いささか愚痴のようになってきたが、
世代論にピンときていない、ということはお分かりいただけただろう。
そんな私たちの世代に(正確に言えば私たちの世代の女性に)新たなレッテルが貼られることとなった。
(ちなみに、本の中には「のび太世代」なる言葉が、彼女らの少し上の世代の男子を指す言葉として出てくるが、「のび太」なんて言ったら世代論もクソもないと思うのだが)
本書では、1982-93年生まれごろの女子を「セーラームーン女子」と定義する。
彼女らの幼少期の体験、すなわち「セーラームーン」の視聴が彼女らに大きな影響を与えたとするのだ。そして、セーラームーンという作品の分析を通じて、この世代の特徴を描き出そうとする。
と、書けばなんだか深遠な分析がなされているように思えるが、一読した限りでは表層的な印象批評と居酒屋談義を組み合わせたようなものに見える。
例えば、「インターバル セーラームーン世代のアンセムとしてのエンディング曲」の章では、エンディング曲をセーラームーン世代のアンセムとして、その内容から世代の特徴を読み解こうとするが、自らの世代論にあった歌詞(実際に流行ったものではあるのだろうが)を解説する一方で、それにそぐわないものについては「特筆すべきでない曲もある」と切り捨てる。
これは、こういう風に読めるし、だからこの世代はこういう世代なのだ。
そういう「分析」が散りばめられるが、「なぜそのように読まれなければならないのか」という点で論証にかけるように思われた。
極めつけには
そういった性の目覚めにつながるスイッチのようなものが『セーラームーン』に仕込まれていたのだとしたら、なかなかに興味深いし、ぜひそうであってほしいと、個人的には思う。
と個人的な願望を語って見せたりもする。
しかし、本書で最も批判されるべきことは、
論証の不足でもなければ、願望による論点の先取でもない。
「世代」なる枠組みを用いて、「個性(特徴)」を語ろうとすることそのものなのではないだろうか。
「セックスはつねにすでにジェンダーである」などという言葉を持ち出すまでもなく、
個の振れ幅はつねに枠組みよりも大きいはずだ。
「セーラームーン」が大ヒットしたアニメであることは間違いないし、
なるほど、影響を受けた人も多くいるかもしれない。
確かに、世代の空気をなにものかで語るときに心地よいフックになるのかもしれない。
しかし、彼のいう「セーラームーン世代」が旧き桎梏から抜け出そうとするとき、
この議論は、また新たなる監獄を作り出してしまうものではないのか。
そんなことを思うとき、表紙の色が脳裏に浮かんで消えた。
*1:知らない人がいるかどうかはわからないが、知らない方はこちらを参照。ようするに、大変人気をはくした少女向けの戦隊(?)アニメである。美少女戦士セーラームーン - Wikipedia