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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

ひとのからだ・じぶんのからだ

火曜日から(教育学部とかは月曜からですが)授業が始まっています。
そう、僕は大学生なのです。いつもえらそうにすいません。

ですが、毎日休講だのガイダンス、初めてのまともな授業があったので
感想をば。

アメリカの生命倫理、みたいな授業です。
アメリカの生命倫理、が専門の先生ではないですが、
教えるにあたって、まず、
生命倫理、というのは綺麗ごとではなく、先端の医療を実社会の中にソフトランディングさせるための装置なんだ。Bioethics=Biopoliticsなんだということを、言い切ったことに好感が持てました。

今日の授業は「人体実験」についてでした。
医療の進歩のために不可欠なものではあります。
しかし、もちろんすべてが許容されるわけではない。
われわれは何を許容「すべき」で、何を許容「すべきでない」のか。
そこを考えるべきなのでしょう。

今日あげられた事例は、
アメリカで、40年にわたって、黒人の梅毒患者が放置され
経過を観察された(死ぬまで)というものでした。
最初は実際治療する金がなかったり、ある意味仕方がない部分もあったのですが。

何が悪かったのか。
「医師」としての責務を放棄したこと。
だと、わたしは思います。
まさに、倫理的で恣意的でしかありませんが。

むかし、駒場の早川先生が言っていたことですが
「医者と患者の契約は実際考えてみると非常に難しい。医者が専門知識を有していて、患者は持っていないという不均衡な関係が前提だからだ。わたしは、この関係は100年戦争のときに家を空けるものが他のものに家を任せたという「信任」に似ていると考えている」
ということがあります。

「信任」を持って医者の職が成り立っているとするならば
それを裏切ってはならないのだと思います。
放置するということは、「未必の故意」の殺人ではないでしょうか。

知識の不均衡を利用して自らの意思を貫徹するならば・・・
さぎみたいなものでしょう。
「抵抗を排してまで、自らの意思を貫徹するすべての可能性」というウェーバー的な意味ではなく、自由を剥奪されているという感覚すら奪いつつ、意思を貫徹する。知による「権力」それを患者に振るっていいのか。考えてください。

じゃあ、自分や自分の子どもにならやってもいいかというと・・・
自己決定論みたいな話になってきますが・・・
眠いし、頭が回っていないようなので、この辺で。