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読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

戦争への責任

どくしょ

アジアプレス代表の野中氏の講義を受けた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%AD%E7%AB%A0%E5%BC%98
アジアプレス(http://www.asiapress.org/index.html


ジャーナリズム論全体へのお話だったが、
主なフィールドがいわゆる「戦場」であるだけにそうした話が多かった。
彼の言っていることを僕が言ったとして
それは「きれいごと」にしか聞こえないかもしれない。
しかしそれだけに、命がけの実践を繰り返してきた彼が言う言葉は
何事にも打ち勝つ力強さをもっていた。


「たくさんの真実、事実はひとつ」
彼はいう。
私たちは何らかのaspectionを通じてしか、物事を見られない。
どの「真実」にフォーカスするのか。
それはいわゆる「偏向」へ誇りであるようにも思われた。


戦争という絶対的な事実を目の前にして
それでもなお「闘う」ということ。
ジャーナリストは戦争に加担してはならない。
彼の言葉が力強くうつった。


おりしも、K.ヤスパース

を読んだ。


ヤスパースは、戦争の責任を
・刑法上の罪
・政治上の罪
・道徳上の罪
形而上学的な罪
に分類した。


しかし、これは「神」の存在を前提化した罪の分類であり
どこまでいっても「法源」は神にあるように思えた。
ゆえに私にとっては、なじみが薄くなってしまった。
(無論、戦争責任を明確に区分し、無限の責任、責任の回避、という両極を回避し中庸を取ったという点で評価されてしかるべきだとは思うが。)


そのとき、野中氏のこんな言葉を思い出した。
「戦争では必ず、罪のない一般の人々が死んでいく。彼らは、死ぬときになぜ私たちが死んでいかねばならないのか、と問うだろう。私たち、戦争に「加担」している人間にはそれに答える義務がある。「国益」ですと、「石油」です、と答えられるのか」


私にとって、戦争の罪の元は神にあるのではない。
この問いである。
だからこそ、「真実」を伝えることに大きな意味を感じる。


先の大戦。
どの国のジャーナリズムも結局は戦争を賛美した。
「戦争の最初の犠牲者は真実である」
そしてこの言葉は今も生きている。