読書は人間の夢を見るか

平々凡々な社会人の読書と考えたこと。本文・写真についてはCC-BY-SA。当然ながら引用部分等の著作権は原文著者に属します。

歩きスマホは違法にするべきか

Should using your mobile phone while walking be outlawed?

Mark Giancaspro, University of Adelaide

※本稿は、The Conversationに掲載された"Should using your mobile phone while walking be outlawed?"の全訳です。著者であるMark Giancaspro氏の許可を得て翻訳しました。*1

 

携帯電話は、私たちの生活に与える恩恵の一方で、公共の安全に対する真の脅威―路上での使用や電磁波とは別に―ともなります。

今日では、多くの携帯電話ユーザーが、歩きながら携帯電話でメールを打ち、あるいは、その他の機能を熱心に使用しています。これは公共の場所でよくみられる光景です―特に道路横断の時には。

オーストラリアでは、3人に1人もの歩行者が、道路横断の際に携帯電話を使用しています。ニューサウスウェールズヴィクトリア における死傷した注意散漫な歩行者の増加に関する最近の報告では、歩きながら携帯電話を使用することを明示的に違法とすることが呼びかけられています。

何が問題か?

米ウェスタンワシントン大学の研究者による2010年の研究で、携帯電話を使用する歩行者は

…そのほかの歩行者と比して、歩行速度が遅く、方向を頻繁に変え、他の人々に気づきにくい

ということが分かっています。

このことは、彼らをより大きな事故のリスクにさらすことになります。

そうした行動はまた、状況認識を低下させ、「不注意による盲目」(新しい特徴的な刺激に気づくことができないこと)を引き起こすことが示されました。研究の被験者は、歩いているいつもの道に一輪車に載ったピエロがいることに気付けませんでした。

更に最近の研究はこのように結論付けています。

歩行者の振る舞いは、注意のプロセス、視覚的及び聴覚的な知覚のプロセス、情報処理、判断そして動作の開始という認知スキルの複雑な組み合わせを要求するものである。

歩いているときに携帯電話を使うことは、これらすべてのスキルを危うくするのです。

オーストラリアの路上で命を落とす人のうち7人に1人が歩行者です。昨年には、165人の歩行者がオーストラリアの道で命を落としました。毎年、約3,500人が重傷を負っています。

歩行者の事故がオーストラリア社会に課す経済的コストは、10億オーストラリアドルを超えます。これは、当事者と家族の感情的な負担を計算に入れたものですらありません。歩行者が関わるほとんどの自動車事故はほとんどが歩行者の不注意から生じているという証拠もあります。

法律はどう述べるのか?

オーストラリアの管轄する区域においては、携帯電話を使用する歩行者を特にターゲットにした法令はありません。しかしながら、このような振る舞いは、信号無視の横断といった他の規定への違反によってとらえられるかもしれません。

例えば、 南オーストラリアでは、人は

…十分な注意をせず*2、又は道路を使用する他者に対する合理的な配慮を行わずに歩行してはならない。

他の州にも似たような法律があります。

オーストラリア道路法第14編は、オーストラリア各州及び準州における道路利用のルールの基礎を形作っており、電話の利用しているところが見つかった歩行者に適用される可能性のある違反の範囲について規定しています。

例えば、歩行者用信号が赤の時に道路を横断することは、不注意な人がよくおかす違反です。しかしながら、それは警察にとっては物理的に扱いにくいものであり、それゆえめったに執行されることはありません。

諸外国の経験からは、歩行者の携帯電話の使用を違法にすることは、法律を成立させるほどには単純ではない、ということが示唆されます。この振る舞いを犯罪とすることは、見たところ、立法者、法執行機関そして公衆を分断してしまうように思われます。

米国の5州アーカンソーイリノイネバダニュージャージー、ニューヨーク)は、みな、特に携帯電話を使用する歩行者を違法とする法令を導入しようと試みましたが、失敗に終わりました。もっと最近では、ハワイ州が携帯電話又はその他の電子的機器を持って通りを横断した者に250ドルの罰金を課すことができるとする法案を提出 しました。

他の例では、政府は携帯電話の使用を特定の場所に制限することによっています。中国ベルギー の街では、不注意な歩行者が害を与えないように携帯電話を使用する人々のための歩行レーンが備え付けられています。

しかしながら、こうした方法は、その悪習を間接的に容認し、歩行者の注意散漫の問題に取り組むのに失敗していると批判されるかもしません。

法改正にあたっての問題

歩行者に携帯電話の使用を禁止することは、運転中に携帯電話の使用を禁止することの自然な拡張のように見えます。データは語ります:歩きスマホをする歩行者は彼ら自身と公共に対する深刻な脅威である、と。

しかし、この悪習を犯罪化することは、基本的人権に対する重大な侵害であるでしょう。運転者が集中すべきであるということ、そして、スピードを出して運転しているときにその手ですべきことを決めることは、公共の場所にいる歩行者に同じことを課すこととは全く別ものです。

そして、どこに線を引くのでしょうか。電話を手に持っていること?使っていること?ちらっと電話の時間を見ることは、腕時計で時間を確認することと類似していますし、同じように無害であるように思われます。

しかし、電話をかけること、SMSやメールを送ること、ソーシャルメディアや他のウェブサイトにアクセスすること、文書を読むこと、そしてそれらに類似するものは集中と注意を必要とします。これらは二つとも、安全に道路を渡る際には、周りの状況を見て、潜在的なリスクを測り、道路をわたるというそれだけに用いられるべきです。

いくつかの研究では、携帯電話依存症が、現実的な事柄としてみなされています。私たちのスマートフォンへの過度の依存は、それを便利な道具から私たちの幸福に脅威を与える者へと変えてしまうのです。

おそらく、法的な介入は、この技術に対する文化的な強迫観念に取り組むための第一歩であり、歩行者に対し、電話、SMS、メールをしないことは死ぬよりも価値のあることだと悟らせるものになるかもしれません。


This piece has been corrected since publication.

The Conversation

Mark Giancaspro, Lecturer in Law, University of Adelaide

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.

*1:翻訳の誤りは訳者に帰しますが、本文中の意見にわたる部分を支持するものではありません

*2:原文はwithout due care or attention

主観のマンションー森達也『FAKE』における八五郎

「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」

落語「粗忽長屋」のオチだ。

粗忽長屋」というのは粗忽もの*1二人が、行き倒れを自分だと勘違いして…という話。

普通に考えれば、ありえないこんがらがったような話だ。

人間国宝となった五代目柳家小さん氏も、粗忽ものを扱った落語の中でも難しい話である旨をマクラで語っている*2

 

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(「粗忽長屋」の舞台は浅草寺近く)

 

立川談志氏は、落語「粗忽長屋」を「主観長屋」として改作したという。

曰く「あまりに主観が強いと、人間の生死までも判らなくなってしまうというという、物凄いテーマを持った落語」*3ということである。

 

森達也監督の『FAKE』*4を見終えて、ふとこのオチが頭に浮かんだ。

 

『FAKE』は、「現代のベートーベン」「全聾の作曲家」などとして売り出しながら、実際には作曲の多くを他者に委託していたこと、全聾ではなかったことなどが発覚し、2014年大きな騒動となった佐村河内守氏とその家族をとったドキュメンタリー映画だ。

私は、佐村河内氏には、大した興味はなく、騒動になるまで佐村 河内守(さむら かわちのかみ)だと思っていたくらいで、かの森達也作品とはいえ、楽しめるかどうか不安に思いながら映画館に向かった。

 

杞憂だった。

夫妻と猫の佐村河内夫妻に、森監督、そして、マスメディアの面々。

メディア批評にも、メディア批評批評にも見えるやり取り。

佐村河内氏の「人間的な」、あるいは「被害者としての」側面。

そして時に見せるコミカルな姿。

ほとんどがマンションの中で撮られているにもかかわらず、飽きを感じさせない。

 

しかし、次第にモヤモヤとしたものが頭をもたげてくる。

「弱弱しい一個人(家族)に対するメディアスクラム」、あくまで攻撃的なライター。裏切ったゴースト。そして「証明」。

わかりやす過ぎるほどにわかりやすいストーリーが展開されているにも関わらず、抜き取れないトゲが挟まっているような感覚。

そこに現れるのが、ラストシーンである。

いったん収束しかけた物語が、これまでの場面場面に仕掛けられた違和を回収しながら、散じていく。

 

森監督は、ドキュメンタリーは「主観」だ、ということをたびたび主張してきた。

対象に干渉し、見せるべきものを見せる。

ちょうど10年ほど前に作られた「ドキュメンタリーは嘘をつく」(テレビ東京)でもそのことが鮮やかに示された。*5

 

『FAKE』で描かれたのは、佐村河内ファミリーの「主観の王国」である*6

描いたのは森監督の「主観」である。

しかし、その「主観」はまた、見る者の主観へと開かれている(同調への「圧力」を伴うものではあっても。)。

「観てるのは確かに「主観」なんだが、それを「観てる」というのは一体…」

 

 

 

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どこにもないけど、誰にでもあるもの-『東大駒場寮物語』を読んで

立て看板に、ペンキ、スプレー缶や模造紙。

いつからあるのかわからないような私物のジャージ。

落書きで埋め尽くされたロッカーはもとより、ボロボロになったソファーの上にまで、所狭しと置かれた物の中、購買部で買った弁当のニオイが立ち込める。

ゴキブリがでた時には、手近にあったオレンジ色のカラースプレーを書けてみた。

オレンジのゴキブリが逃げていった。

何をそんなに一生懸命になっていたのか、あるいは、何がそんなに一生懸命にさせていたのかはわからないけれど、「他のどこにもない特別な時間」を過ごしたという実感があった。

しかし、その場所も今はない。

母校の校舎は、創立100周年を迎えて建て替えられた。

当然、狭苦しくて、汚くて、夏には地獄のように暑かった、あの生徒会室はもうないわけだ。

思えば、私が入り浸っている場所は、いつもゴチャゴチャとした吹き溜まりのようなところだ。

大学時代によくいた部屋もゴチャゴチャと汚かった(あるとき、掃除をしていたら全共闘時代の遺物と思しきガリ版刷りのビラが出てきた)。

いや、何も汚いことは良いことだ、と正当化したいわけではない。

私が汚いところにいて落ち着くのはもっぱら生育環境のせいだろう。

 

東大駒場寮物語

東大駒場寮物語

 

 こんなことを思い出したのも、この本を読んだからだ。

私が入学した頃には、既に駒場寮はなかった。

確か、1学期の終わりごろには、新しい食堂がオープンしていたように思うけれど、東大にさしたる関心もなかった私は、そこにあるモニュメントの意味すらもしらなかった。

そこには、かつて「駒場寮」があったのだ。

「渋谷から歩いて15分で行けるスラム」と称され、多くの学生(とたまにそうでない人)が自治と自由の中で暮らした。

筆者は、元駒場寮委員長。

豊富な資料と実体験から語られる、明治大正の昔から、筆者も参加した存続運動、そして廃寮に至るまで、駒場寮とそこに暮らした人々の「青春」の物語は、その場に漂う空気をも感じさせる。

 

「ここでしかあり得なかった経験」が、実は他の多くの場所で、多くの人に存在するのだと気づいたのはいつごろだっただろうか。

筆者やその周囲の人々の行動に、少なからぬ共感を覚えるのは、私が同じ場所に通っていたから、というような理由ではない。

それはきった、全く別の場所で起きていた「私」の出来事を追体験させてくれるからだろう。

 

 

昨年のホームカミングデーの日。

現役の学生たちとの交流もそこそこに、学生時代から通い慣れた店の三階に上がり込んだ。

ボツボツと人が集まり、賑やかになってきた頃、下から上がってくる人影が見えた。

日中に、駒場寮のイベントで見かけた少年だった。

「ああ、やっぱり」

昼間一緒にいた後輩と顔を見合わせ、また、盃を傾けた。

 

鉛筆書きのメディア論

「鉛筆だってIT(Information Technology)なんだから」

大学2年生の講義で聞いた言葉が、いまでも頭の根っこを支配している。

ITというと、パソコンやスマホ、最先端のデジタル機器を思い浮かべてしまうけれど、実際には鉛筆やノートだってInformationのためのTechnologyであることには違いない。

だから、最新のIT機器について、などと聞かれると、ひねくれた自分は、最新型のシャープペンシルの話でもしようかと思ってしまう。

 

再び、この言葉が頭に浮かんだのは、小田嶋隆さんのライティング講座に行ってきたからだ。

odajiman4-ktbkbt.peatix.com

 

文筆を生業にしてきた私の父は、ここ20年ほどの間、PCを使って原稿を書いてきた。

1993年に初めてPCを買った父は『電撃編集作戦』という本の中で、こう語っている。

思うにペンを握る指先と文章をひねり出す頭脳は間接ではなく直接に結びついている。あらゆる手作業というものは、アタマではなくカラダで覚えるものだ、と言われるように使い慣れた編集の道具も簡単に換えるわけにはいかない。

神足裕司『電撃編集作戦』アスペクト, 1996, p.12.

予備校時代に、文章を書き始め、以来十数年にわたって原稿用紙の升目を埋め続けた。

私たちは、考えたことを書き留めているのではなく、書くことによって考えているという側面が間違いなく存在する。考える、そして、書く、と言う作業にとって、そこに介在する道具は、クリティカルなものだ。

キーボードを伝って、画面に表示される文章は「デジタル」だ。

デジタルの語源である「指」そのものを使って、「二値的」に打ち込まれ、そして、あとから容易に、そして、いくらでも書き直し、書き加えることができる。

「アナログ」の語源である比例のグラフを思わせる、いや父の場合はテルアビブかバグダードあたりのミミズが這いまわったような線だけれども、鉛筆の痕跡は容易に変更することはできない。

それゆえ、書き始める前に、人は苦悩し、大枠の構想を定めておく必要がある。

ティーショットをどこに打ち、どこからアプローチするのか、グリーンのどこから決めていくのか、アタマで描く。そしてまた、フェアウエーを外したような時が腕の見せ所でもある。

あるいは、詰み上がりをアタマに描きながら、頭のなかで駒を動かす詰将棋のように。

私も、別に作文で何かしようと思っていたわけでもないけれど、父の友人に随分と原稿用紙の使い方を仕込まれた。原稿用紙に書くことは殆ど無いけれど、今その教えを噛みしめる。

 

PCの登場によって、モノの書き方が変わったことには、小田嶋先生も、内田樹さんとの対談で触れている。

「書き出しなんて考えずにとりあえず書けばいいんだよ、と本書で書きましたが、それはワープロ時代の書き方ですね」*1

 

で、その小田嶋先生から頂いた質問に、病気をする前と後の文体の違いがなぜ生まれるのかについて、というものがあったのだ。

先生の適切な表現を借りるならば「逡巡や空回りを含んだ遊びのある文章」から「短刀のような切れ味と豊かな余白」が感じられる文章へ。

その変化はなぜ起きているのか。

 

考えることが難しくなっていること、思い描いた構想と違う方向に行ってしまうこと。それを防ぐために短く切り詰めた文章を書いていること。

父はそんな説明をしていたけれど、いつも横で見ている私のアタマには、違う理由が浮かんだのだ。

 

父は今、病気をして、両手を自由に動かせなくなって、再び、原稿用紙へと回帰している。

これが、キーボードを通じた文章と、鉛筆書きの文章の違いなのだ、と言ったらば、言い過ぎだろうか。

 

小田嶋先生は、文体は身体的な条件に依存する「歩き方」や(野球の)「フォーム」のようなものだという。

メディアは身体の延長。

裸足なのか、スニーカーなのか、はたまたハイヒールなのか。

当然歩き方は変わってくる。

時には、紙の上に鉛筆を這わせてみれば、違う発想が生まれるのかもしれない。

 

 

 

 

電撃編集作戦 (EYE‐COM BOOKS)

電撃編集作戦 (EYE‐COM BOOKS)

 

 

小田嶋隆のコラム道

小田嶋隆のコラム道

 

 

*1:小田嶋隆小田嶋隆のコラム道』ミシマ社, 2012, p.237. なお『電撃編集作戦』でも、「最初の一行」に触れられている。これはまたの機会に。

私たちの時代のサイン Emojiはなぜ言葉よりも人を動かすものでさえありえるのか

Signs of our times: why emoji can be even more powerful than words

Vyvyan Evans, Bangor University

※本稿は、The Conversationに掲載された"Signs of our times: why emoji can be even more powerful than words"の全訳です。著者であるVyvyan Evans氏の許可を得て翻訳しました。*1

 

毎年、オックスフォード英語辞典-英語の世界的な権威の一つ-は過去12ヶ月において傑出して目立ってきた単語を「今年の単語(Word of the Year)」に選んでいます。単語は、その語がどれだけ頻繁に使われたか、その語が私たちの生きる時代の何を明らかにしているか、といったことについての綿密な分析に基づき、注意深く選ばれます。過去の事例には、最早古典となった「vape*2」、「selfie*3」、「omnishambles*4」を含んでいます

しかし、2015年の言葉は、全くもって言葉ですらなかったのです。”Emoji”-正確には”喜びの涙を流す顔”の絵文字-だったのです。

以前は、思春期の子どもが ブツブツ言っているのと文字通り等しい物として、軽蔑の目で見られていましたが、Emojiは、いまやメインストリームに乗ってきたように見えます。もし、それが本格的な言語ではなかったとしても、それは、少なくとも、私たちの多くが、多くのタイミングで用いるものになっています。以前の記事で私がお伝えした研究によれば、事実、英国でスマートフォンを使う大人の80%がEmojiを使っています。

しかし予想通りのことながら、オックスフォード英語辞典の決定は、いくつかの方面に驚きを与えています。Hannah Jane ParkinsonはThe Guardianに書いた記事で、決定に「馬鹿げている」の烙印を押しました。Parkinsonのために言うと、そして、同じように考えている「言語の権威」がたくさんいると思うのですが、それは「馬鹿げて」います、だって、Emojiは言葉ですらないんですから。彼らは言うでしょう、間違いなく、これは人気取りだ。オックスフォード英語辞典は実はこんなにナウいんだぞ、と見せることだけに心を傾けている賢いマーケティング担当の幹部が夢見てるんだ、と。

しかし、Parkinsonはまた、より今年の単語にふさわしい、Emojiがたくさんあるということ観点からの批判もしてします。彼女が提案しているEmojiのうち、そのタイトル*5に対して見合っているものは、ネイルペイントのEmojiと茄子(又はナス)のEmojiというたった2つだけです。

的を射ない

しかし、これらの批判は両方とも的を射ていません。Emoji-「絵の文字」を意味する日本語から来ている(2013年版になってオックスフォード英語辞典に入った単語です) -は、多くの面で言語的なものです。しゃべり言葉や手話は、私たちがメッセージをやり取りし、他の人の精神的な状態や振るまいに影響を及ぼし、私たちの市民的な、社会的な状況に変化をおこすこと可能にします。私たちは、結婚のプロポーズをするために、そしてそれを確認するために、また、口喧嘩をして、離婚をするために言語を使います。しかし、Emojiも同じような機能を果たしているのです-それは、逮捕に繋がることすらあるんです!

今年の早い時期に起きた珍しいケースについて考えてみましょう。17才のアフリカ系アメリカ人が、Facebookに警官のEmojiとそれに向けたいくつかの拳銃のEmojiが入った公開の投稿をしました。ニューヨーク地方検事は、ニューヨーク警察に対し、「テロの脅威」の疑いで逮捕状を発行しました。Emojiは害を引き起こす、あるいは、それを扇動する脅威に等しいと主張されたのです。

間違いなく世界初のemojiテロ犯罪の容疑で、大陪審は、最終的にその10代の若者を起訴しませんでした。しかし、ポイントは、一連のEmojiが、言語と同様に、メッセージを伝え、同時に、それを実行する手段を提供することができるということです-このケースで言えばニューヨーク警察に対して武器を取る容疑がそれにあたります。

私たちの宝物である英単語と同様に、Emojiは、思考の、そして潜在的には、説得の強力な道具です。言語と同じように法廷において、あなたに対する証拠になりうるし、なることもあるでしょう。つまりは、Emojiの言語的な性質を認めようとしない人々は、人間のコミュニケーションが、私たちの誇るべきこの新しいデジタルの世界でどのように行われているか、原理的に誤解しているのです。

Emojiの進化

ふたつ目の抗議-オックスフォード英語辞典にもっと誇るべき他のEmojiがあること-もまた、デジタルの領域で言語がいかにして進化しているかということについて誤解しています。

Emoji perfection from www.shutterstock.com

一つには、最近の研究では、一日に世界で用いられるEmojiの60%弱が様々な種類の笑顔や悲しい顔で構成されているということを示唆されています。この典型的なEmojiは、現在、英国のEmoji使用の約20%を占めています(過去12ヶ月間に4倍に増加しました)。それが今日、最もよく使われているEmojiの一つであることには議論の余地がありません。その意味から言えば、「喜びの涙を流す顔」のEmojiは、私たちの每日のデジタル生活で使っている主な方法を完璧に適切に表現しています。

しかし、この特筆すべきEmojiは、より深い理由から適切であるともいえます。Emojiは、テキスト上での会話において、会話の相互作用におけるイントネーション、表情、そしてボディランゲージに値します。Emojiは、従来的な意味での単語ではない一方で、それにもかかわらず、重要なコンテクスト上の合図を示しており、これによって、私たちは、個人のデジタルのテキスト表現を適切に区切ることが可能になるのです。そうでなければそれは感情的に乾いたものになってしまうでしょう。

重要な事には、Emojiは私たちが話しかける人からの共感を得ることを助けてくれます-それは、効果的なコミュニケーションで要求される中心的なことです。それは、私たちのテキストの解釈のされ方に影響を与え、よりよい感情的な表現を行うことを可能にします。

いくつかのやり方で、Emojiは言葉よりも強力だという議論をすることさえできるかもしれません。「喜びの涙を流す笑顔」のEmojiは、効果的に、複雑な感情の状況を伝えることができます、これを言葉で伝えようと思えば、幾つかの単語が必要ですが-ただ一つの、比較的シンプルな文字で伝えることができるのです。それはうまいこと瞬間的な感情的な共鳴を呼び起こすことができます。そうでなければ、言葉の連なりの中で失われてしまうようなものなのです。

場合によっては、言葉を置き換えられるEmojiがあります-これは、言語学者が、コードスイッチングと呼ぶものです。より極端な例-「不思議な国のアリス」のような文学作品の翻訳のような-においては、それは、言葉としてのみの機能を果たしており、そして、文法的な構造を与えられています。Emojiの表現力には本当に議論の余地がありません。

だから、オックスフォード英語辞典のマーケティング上の思惑を不人情にも批判する人もいるかもしれませんが、私は彼らを賞賛しています。私たちは、ますます、Emojiの時代に生きているのです。それは、まさに文字通り、私たちの時代のサインです。言語がここにあり続けることに疑いはありません-偉大な英単語は壊されてはいませんし、すぐに壊されてしまうことはないでしょう。しかし、Emojiはデジタルのコミュニケーションにおけるギャップを埋めてくれます、そして、その過程で私たちはコミュニケーションがよりうまくなるでしょう。

The Conversation

Vyvyan Evans, Professor of Linguistics, Bangor University

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.

*1:原文はCC-BY-NDで公開されています。以下注は訳者によります。

*2:電子タバコ

*3:携帯電話の自撮り

*4:失敗などで特徴づけられるすべてがめちゃくちゃな状態

*5:Parkinson氏の記事のタイトルは"Oxford Dictionary names emoji 'word of the year' - here are five better options"(オックスフォード英語辞典はEmojiを「今年の単語」に-5つのよりより選択肢)というもの。

メディアのフレーム-パリの事件からみえたもの

先週のフランス・パリで起きた大規模なテロ事件は世界に大きな衝撃を与えました。

私や家族も、友人が数人パリに居ることもあって、その日はテレビに釘付けになりながら、必死でSNSをくっていました。

被害にあわれた方、犠牲になられた方々、そして今なお、心安らかならない日々をおくっていらっしゃる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

 

その日、話題になったのは、日本の報道機関が、テロを報じていない、ということです。*1

実際には、全く報じていないわけではなかったのですが、欧米大手のテレビ局、CNNやBBCが番組スケジュールを切り替えて、延々と報じ続けていたことと比較すると、対応には差が見られたということがこうした感想の裏にはあるのでしょう。

 

そこで行われていた議論を見て、私が思い出したのは、ドイツの放送を論じるときの用語である「基本的供給」というものです*2

ドイツでは、民間放送が成立したが、日本と比較すると遅かったのですが、それが出てきたあとに、公共放送の意義を説明するときに語られたのがこの言葉です。

ごくごく簡単にいえば、公共放送で商業的な意図と関係なく(視聴率関係なく)、みんなに放送できるから、「これさえみてれば社会(的な議論)に入っていける」という放送ができる、そして、それこそが公共放送というものが存在する意義なのだ、ということです。

あれだけの大事件、これからも社会的な論議を呼んでいくその発端。

あの議論には、それを放送することが、放送の果たすべき公共的な意義なのだ、という意図が含まれているようにみえたのです。

 

日本でも、そうしたことが意識されていなわけではないと思います。

例えば、NHKの理事さんは次のように述べています。

 

「多様化した社会はつながりが失われ、共通の関心について語る『公共圏』は今、細分化、分極化が進んでいる。公共放送の役割は公共圏を活性化させることだ」(NHK・井上樹彦理事 世界公共放送研究者会議)

 

「番組改編案に疑問」『毎日新聞』(夕刊)2015.11.19.

 

というと、公共放送はニュースと災害放送だけやってればいい、というように聞こえるかもしれませんが、必ずしもそうは言えません。

例えば、ドイツの公共放送の意義については、さらに「機能的任務」という「社会的な結びつきを強める」ことをもその意義として包含する概念になっていきますし、実際、上の井上理事も、そのあとで紅白歌合戦を例に出されたりしています*3

もしかすると、総合編成的にバラエティのようなことをやっていて、その流れでニュースなどに接するかも知れません。そういったことも含めたもの*4が放送の役割の一端なのかもしれません。

 

しかし、実際にニュースに切り替えるというのは、大きな判断です。

私が、何かを写せる立場なら走って行ってでも、撮りたい、と思うかもしれませんが、そう簡単なことではありません。

特に民間放送では、スポンサーとの兼ね合いもあります。

人員的な問題もあるでしょう。取材して、セットの準備をして、人を集めて。

番組を作るというのは大変な労力を要します。

難しい、という見解も多く聞かれました。

 

<パリ同時テロ報道>土日の報道量の少なさと対応の遅さはテレビ局のスタッフ不足が原因?

[安倍宏行]【何故地上波テレビは海外ニュースを瞬時に伝えないのか?】~ネット時代のテレビの役割~ | NEXT MEDIA "Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]

 

私が、CNNを見ていたときに、記者の口からこんな言葉が何回か聞かれました。

「遠くにいたのでわからなかったのです」

日本の優秀なテレビマンなら取り繕うところかもしれません。

CNNの人も後で怒られたのかもしれません。

しかし、ニュースバリューの大きさいかんでは、最高の準備ができなかったとしても伝えるべきことがあるのだ、そういう心のあり方をそこに感じたのです。

東京大学大学院准教授の丹羽美之氏は、NHKの「やらせ問題」に関連してこういっていました。

問題の根幹は「決定的瞬間を撮ることばかりに固執しがち」な「スクープ映像主義」である、と。*5

決定的な映像がなくても、それは仕方ない、そういう時が許されてもよいのかもしれません。

 

と、縷縷書いてきましたが、こういうことを書けばこういう批判があるでしょう。

なぜパリの時だけそのようなことをいうのか、ベイルートの時はいわなかったのに?

 

大手SNSFacebookはまさにそのような批判にさらされました。*6

安否確認機能をパリの事件で人為的な事件に対しては初めて提供したこと、

プロフィール画像トリコロールをオーバーラップさせる機能を提供したこと。

正直に言えば、私も、トリコロールには違和感をもちました。

もちろん、個々人がトリコロールを使って哀悼を示すことはよいのです。

しかし、私があのボタンを押そうとする時、なんとなく「誘導」されている気になったのです。

こうして、自分で意識しない間に意識が集約されてしまって良いのだろうか、そう思ったとき、そのボタンを押すことはできませんでした。

人づてに聞いた「ワンクリックで連帯が表明できるような社会は私は苦手だ」という言葉に集約されるのかもしれません。

 

でも、そういうものだ、ということもできます。

少し話題になった風刺画がよく表しているように、どのようなメディア(マスと言う意味ではなく)も、現実の一部を切り取ります。

 

#prayfortheworld#opinionPS: pls do understand that this piece is only against the almost unequal treatment of the world media on every terrorism act

Posted by Leemarej on 2015年11月14日

 

Googleで検索される世界だって、ネットの何処かにある情報だって、

もちろん、マスメディアに乗る情報だって。

そこには何らかの観点が存在します。

そりゃそうです。人間全知全能ではあり得ないし、「すべての再現」というのはあり得ないのですから。

今回のパリの事件を中心にして巻き起こった議論。

それは、そもそもいつも日常にある問題を浮かび上がらせただけなのかもしれません。

 

Facebookはネットのプラットフォーム。

放送を初めとしたはこれまでなんやかんやと意見や表現のプラットフォームを担ってきました。

 これからの時代、私たちはどんな窓枠を、どんな枠組みを通じて世界を眺めるのでしょうか。

 

 

メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)

メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)

 

 

 

*1:なお、本稿において、意見に渡る部分については、所属する組織等とは一切関係ないものであることを記しておきます。

*2:詳細はさしあたり、石川明「ドイツにおける「公共放送像」」『社会学部紀要』, 2001.3 http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/89/89-10.pdf

*3:世界公共放送研究者会議 RIPE、日本で初開催 - 産経ニュース。以前、ドイツの偉い先生にお話を伺った際に、公共放送は民主的な議論ができる共通的な文化の再生産に資するのだ(だから、交響楽団なども許される)(大意)といった話をされていたのが印象に残っています。

*4:もちろん、レクリエーション的なものそのものが価値が無いと言っているわけではないですし、私にとって次の日を生きる糧になることもあります

*5:丹羽美之「取材と撮影「縦割り」背景に」『読売新聞』2015.11.13.

*6:Facebook、パリのテロ事件で適用した安否確認機能の批判を受け、他の災害にも適用すると明言 | TechCrunch Japan

コンピュータがいかにして科学を壊したか―そして、その修復のために我々は何をなし得るのか

How computers broke science – and what we can do to fix it

Ben Marwick, University of Washington

※本稿は、The Conversationに掲載された"How computers broke science – and what we can do to fix it"の全訳です。著者であるBen Marwick氏の許可を得て翻訳しました*1

 

「再現性」は、科学の最も根本的な礎の一つだ。1660年代に活躍した英国の科学者・ロバート・ボイル によって多くの人に受け入れられるようになったこのアイデアは、発見が再現可能でなければ科学的知見として受け入れることはできないというものである。

本質的には、私が、発見を学術論文において公開したときに説明したのと同じ方法をとれば、私がなしたのと同一の結果に到達できるべきだ。例えば、研究者が病気を治療することについて新薬の有効性を再現できれば、それは、その病気に苦しむすべての人々に対して、有効に作用しうるということへの良いサインとなる。もし再現できないのであれば、何らかのアクシデントやミスが元の好ましい結果を生み出したのではないかということについて疑問に思うことになるだろうし、そしてまた、薬の有効性を疑うことになるだろう。

科学の歴史の大部分において、研究者は、その方法を結果の独立な再現が可能となるようなやり方で報告してきた。しかし、パソコンの導入―そして、よりユーザーフレンドリーな進化を遂げたポイントアンドクリック型のソフトウェアの導入以降、多くの研究の再現性が、不可能ではないにしても、疑問視されるようになってきている。多くの研究者が依存するようになったコンピュータの不透明な使用によって、あまりにも多くの研究の過程が包みこまれているのだ。これは、外部の人間が、その結果を改めて作り出すことを概して不可能なものとしている。

最近、いくつかのグループが、この問題に対し、似通った解決策を提案している。彼らは、一緒になって、科学的データを、記録のないコンピュータ操作のブラックボックスから出し、そして、独立した読み手が、改めて批判的に検討し、結果を再現できるようにしようとしている。研究者、市民、そして科学それ自体が利益を得ることになるだろう。

コンピュータはデータの世話をする、しかしそれだけでなく覆い隠す

統計学者のVictoria Stoddenは、コンピュータが科学の歴史において占めてきた独特の地位を説明してきた。それは、(望遠鏡(telescope)や顕微鏡(microscope)のような)新しい研究を可能にするただの道具ではなかった。コンピュータは、異なる意味で革命的なものだ。つまりは、それは科学的なデータの新しいパターンを見つけるためのあらゆる種類の新しい「視野(Scope)」を作り出す小さな工場なのだ。

ものすごく定量的であるというわけではない分野においてさえ、コンピュータなしで働く現代の研究者を見つけることは難しい。生態学者は、災害の動物の生息数に対する影響をシミュレートするのにコンピュータを使う。生物学者は、膨大な量のDNAデータを検索するのにコンピュータを使う。天文学者は、望遠鏡の膨大な並べ方をコントロールし、そしてデータを処理するのにコンピュータを使う。海洋学者は、衛星、船舶そしてブイからのデータを結合して、地球の気象を予測するのにコンピュータを使う。社会科学者は、政策の効果を検証し、あるいは、予測するために、また、インタビューの書き起こしを分析するためにもコンピュータを使う。コンピュータは、ほぼ全ての学問分野の研究者がデータ中の何が面白いかを見出すのを助けている。

また、コンピュータは、個人用の機器になりがちだ。私たちは、一般的に、自分のコンピュータを他の人には使わせないで一人で使うし、そこに入っているファイルやフォルダは、全体としては、個人の領域として考えられ、世間の目からは隠されたところに置かれる。データを、準備し、分析し、そして結果を目に見えるものにする、これらは、個人的な領域である、コンピュータ上で行われる仕事だ。パイプラインの最後の最後のところだけが、全ての個人で行っていたことを要約した雑誌論文として、公の目にさらされる。

ここで問題となるのは、現代の科学の多くはとても複雑で、かつ、雑誌論文の多くはとても短い、つまりは、研究者がデータをコンピュータ上で分析するに際して行った多くの重要な手法や決定の詳細を論文中にすべて治めることは不可能であるということだ。これでは、どうすれば他の研究者は結果の信頼性を判断し、分析を再現することができるだろうか?

Good luck recreating the analysis. US Army

科学者はどれほどの透明性を求められるか?

スタンフォード統計学者であるJonathan BuckheitとDavid Donohoは、パーソナルコンピュータがまだかなり新しい概念であった1995年という早い時期にこの問題を説明している。

計算科学については、科学論文における記事は学問的成果そのものではない、それは、単に学問的成果の広告に過ぎない。図を作り出した開発環境全体と一連の機器全体こそが実際の学問的成果なのだ。

彼らは過激な要求を行った。それは、私たちのパソコン上の全ての私的なファイルと、成果の公開の準備のために行った私的な分析を、科学誌の記事と併せて公開すべきだということを意味した。

これは、科学者の仕事の方法を大きく変えることになるだろう。私たちは、初めからコンピュータ上で行われる全てのことを最終的に他の人に見せられるように準備する必要があることになる。多くの研究者にとって、それは圧倒的されるような意見だ。Vicroria Stoddenは、ファイルを共有するにあたって 最も大きな障害は、その準備のために文書を書き、ファイルをクリーニングするのに要する時間であるとした。次に大きな関心は、他の誰かがこれを用いたときに、そのファイルに対してクレジットの表示を受けられないというリスクにある。

再現性を増強するための新しいツールボックス

What secrets are within the computer? US Army

近年、いくつかの異なる科学者のグループが、コンピュータ上のファイルと分析の追跡を容易にするツールと方法の勧告に向けて集中している。これらのグループには、生物学者生態学者原子力技術者神経科学者経済学者そして政治学者が含まれる。 マニフェストにも似た文書には、彼らの勧告が示されている。こうした異なる分野の研究者が共通の行動方針に向けて集まるというのは、科学という営みにおける大きな潮流が進行中であるかもしれないことを示す兆候だ。

第一の大きな勧告、それは、データ分析におけるポイントアンドクリック形式の過程を、コンピュータが実行する命令を含むスクリプトを用いることが可能な範囲で最小化し、置き換えるということである。これは、他の人とのやり取りが難しく、また、自動化が困難である、痕跡を少ししか残さない、はかないマウスの動きの記録という問題を解決する。それは、MicrosoftExcelのような表計算プログラムを用いるデータクリーニングと組織化のタスクの間にも共通する。一方で、スクリプトは、あいまいさのない命令を含むものであり、将来的にその筆者(とりわけ特に詳細な点が忘れられてしまった場合)や他の研究者によって読まれることが可能である。更に、それは大きなファイルではないから、科学誌の記事に含めることが可能だ。そしてまた、スクリプトは、容易に研究上のタスクの自動化に適応することができ、これは、時間の節約やヒューマンエラーの可能性を減少させることにもなる。

微生物学生態学政治学 そして 考古学において、その例をみることができる。結果を得るために、メニューとボタンの周りでマウスを動かし、手動で表のセルを編集し、そして、いくつかの異なるソフトウェア間でファイルを引っ張りまわす代わりに、これらの分野の研究者はスクリプトを書く。そのスクリプトは、ファイルの移動、データのクリーニング、統計的分析そして、グラフ、図、表の作成を自動化する。これは、分析をチェックしたり、異なるオプションを検討したりするために再実行する際に大きな時間の節約になる。そして、論文の一部となったスクリプトファイルのコードを見れば、誰もが、公表された結果を導いた正確なステップを知ることができる。

他の勧告には、ファイルの保存にあたって共通の、独占的でないファイルフォーマット例えば表形式のデータであればCSVやコンマによる変数分離形式)やどのように情報が構成されているのかを他の人が理解しやすいような体系的なフォルダへのファイルの整理のための シンプルな説明 を用いることを含んでいる。また、データの分析や可視化のためには、どのようなコンピュータシステム(例えば、Windows, MacそしてLinux)でも利用可能なフリーソフトウェアを推奨している(例えば、RPython)。共同作業を行うためには、多くの人々が同じファイルを編集する際に変更履歴を追う助けになるGitと呼ばれるフリープログラムを推奨している。

近頃では、これらは前衛的なツールと方法であって、多くの中堅以上の研究者は漠然とした意識しか持ち合わせていない。しかし、多くの学部生は今これを学んでいる。多くの大学院生は、自らが職を得るのに有利であると考え、オープンフォーマット、フリーソフトウェアや効率化された共同作業を用いており、制度上のトレーニングとのギャップを埋めるために、Software CarpentryData CarpentryそしてrOpenSciのようなボランティア組織に トレーニングの場ツールを求めている。私の大学では、最近、研究者が先にみてきた勧告に適応することを支援するため、eScience 研究所を設立した。この研究所は、バークレー校ニューヨーク大学にある同様の研究所を含む大きな動き の一部となっている。

これらのスキルを学んだ学生が卒業し、そして、影響力のある立場になっていっており、これらの基準が科学の新しい標準になっていくであろう。学術ジャーナルは、論文に付けるコードとデータを要求することになるだろう。資金提供機関は、コードやデータが誰もがアクセス可能であるオンラインレポジトリにおかれることを要求するだろう。

Example of a script used to analyze data. Author provided

オープンフォーマットとフリーソフトウェアはWin-Winだ

研究者のコンピュータ利用の方法におけるこの変化は、市民参加にとっても有益なものとなるだろう。研究者は、そのファイルや手法のうちより多くをより快適な方法で共有することができるようになり、一般市民は、科学的調査へのよりよいアクセスを得ることになるだろう。例えば、高校の教員は、生徒に直近に刊行された発見から生データを見せ、そして、分析の主要な部分を追体験させることができる、なぜならば、それらすべてのファイルが学術誌の記事に付属して利用可能となるからだ。

同様に、研究者がフリーソフトウェアを使うことが多くなれば、一般市民が、科学誌の記事に公開された結果をリミックスし拡張するのに、同じソフトウェアを使うことができる。現在、多くの研究者は高額な商用ソフトウェアを使っているが、そのコストによって、大学や大企業の外にいる人々はソフトウェアにアクセスすることができない。

もちろん、パソコンは、科学における再現性 にまつわる唯一の問題ではない。貧弱な実験デザイン、不適切な統計手法、高度に競争的な研究環境、そして、新規性や知名度の高いジャーナルに論文を出すことに高い価値を置くこと、これらは全て批判されるべきだ。

コンピュータの役目の独特な点、それは、問題への解決方法を持っていることだ。どんな科学者がコンピュータで行った研究の再現性をも改善するため、計算科学研究から借りた成熟したツールとよく検証されてきた手法を明確に推奨できる。これらのツールを学ぶための小さな時間の投資によって、私たちはこの科学の根本的な礎の修復に向かうことができるのだ。

The Conversation

Ben Marwick, Associate Professor of Archaeology, University of Washington

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.

*1:原文はCC-BY-NDで公開されています。翻訳にあたっては、東京大学大学院学際情報学府博士課程の加瀬郁子氏の助力を得ました。記して感謝します。