時にはボレロを踊って
忘れられない光景がある。
あの大震災から数十日目の夜。
JRと私鉄の駅を結ぶコンコースはまだ薄暗かった。
一つのバンドが現れた。
電子ピアノ、ドラム、ベース。管楽器にボーカル。*1
演奏し始めたのはジャズだった。
誰もが知っているようなJpopのアレンジから、スタンダード。
進むに連れて、人の輪が広がった。
その場で電話をかけて、「ジャズやってるんだよ!」なんて言って知り合いを呼ぶ人もいる。
震災への寄付を目的としたチャリティバンド。
演奏が終わると、多くの人がボックスにお札を入れていった。
みんながその音楽に魅了されていたのだ。
「いつもはどこでやってるんですか?」
「このメンバーでいつもやってるわけじゃないんです」
そんな会話が交わされていた。
- -
彼が太鼓を習い始めたのは、小学生の頃。
授業で叩いたスネアが楽しかったからだった。
そのことを聞いて私の頭のなかには、ある曲が流れ始めた。
ラヴェルのボレロだ。
同じリズムを刻むスネアの上に乗って様々な楽器が主題を演奏していく。
『愛と哀しみのボレロ』という映画では、この曲にあわせた踊りが象徴的なシーンらしい。
らしい、というのは伝聞だからだ。
父がそれにインスパイアされた踊りを宴会での持ちネタにしていたと聞いた。
確か、小学校の時、この曲とスネアを使った授業があったはずだ。
高校生になれば、ドラムを叩き、後に音大へ。
ビッグバンドのオークションを受けて通ったことが、ジャズとの出会いだった。
ジャズコースでは、小曽根真氏らの薫陶を受け、在学中には山野ビッグバンドジャズコンテストを連覇。
卒業時には優秀な学生に贈られる山下洋輔賞*2を受賞し、渡辺貞夫氏らとも共演した。
卒業後、彼は海を渡る。
ジャズの名門校として知られるバークリー音楽院に全額奨学金を受けて留学。
ここでも首席で卒業し、ニューヨークに舞台を移す。
彼の名は小田桐和寛。
冒頭のチャリティーライブは出国する数か月前に行われたものだった。*3
順風満帆のようだ。
才能にも、運にも恵まれて、スイスイと階梯を登っていく。
果たしてそうだろうか。
今でも耳に残る彼の言葉がある。
確かコンテストの前後。
「俺らが一番練習してるから…」
そう仲間に言っているのが聞こえたのだ。
「運命は勇者に微笑む」と、将棋の羽生四冠はいうけれど。
実力の伴わない勇気に運命は微笑まない。
そこには積み重ねた修練の時が現前する。
ボレロの太鼓は続いていく。
次第に興奮を伴いながら。どこまでも。
凄玉ドラマー、小田桐和寛はニューヨークで粉骨砕身、夢に向かう
こんな記事をみたので少し。
本当に楽しそうだ。