この間、日本に来ていた聖なる火は
あっという間に、朝鮮半島を駆け抜けて
中国へと向かいました。
チベット問題に絡んだ抗議活動が
かなりおおっぴらに行われたことで注目を集めました。
本来的に言えば、聖火の話というのは副次的なものにすぎないのだから、チベットと中国の関係そのものについて語っていくべきなのでしょう。
しかし、それよりも、聖火ランナーが水かけられてるところを流したほうが、面白いからでしょうか。
ワイドショーでは、連日これが報じられました。
「平和の祭典」なのだから暴力的な抗議活動はすべきではない。
というような意見はよく見られました。
反対に、中国許すまじ、の一念からか、
そんなのどうでもいいから抗議活動しろ!
というような方々もネット上ではよく見かけました。
私自身は、
「政治的な主張は、暴力的な権力*1関係を生じせしめない限りにおいて、つねに許容されるべきだ」と考えているので
そういう抗議活動はやればいいと思うんです。
その中身が正しいか、やり方の戦略が正しいか
そういった問題とは別に、そうした主張の機会自体を
権力的な手段によって奪い取るということには
危険を感じます。
もちろん、ただ、面白おかしく報じられていたことは否めないし、それに便乗した愉快犯、あるいは最悪な自己主張(右翼の方々とか)をしていた方もいらったのこと。そういうのは、なんか「下品」な感じがしますね。
もはや、論理でもなんでもないのですが。
Free Tibetを声高に叫ぶつもりはありませんが、
そう叫ぶことが許されないのは我慢がならないのです。
さて、いつもだったら、ここから書評にある程度つなげていけるのですが・・・
今回はちょっと難しかったw
このひとの「現代社会の理論」を高校生のときに読んで
少しかぶれましたからね。
むかしこれも読んだはずです。
ゼミの文献として取り上げられたわけですが
先生が言うように「社会学入門」としてはやはり不適切な一冊でしょう。
だから、本として評価されないかというと
そんなことはありません。
見田宗介の初学者(あるいは後進)への思いが詰まった一冊であることは確かであると思います。
(とりあえず、冬学期に来てくれるようなので楽しみです)
社会学はなんでもできる学問だ。
よく言われます。
でも彼はここに一点の注意書きを与えます。
何でもすること・領域を横断すること、それを目的にしてはならない。
自ら、目的とするものを追っていってその先で、領域を越えなければいけなくなったとき
そのときに禁欲をしないのが社会学なのだ、と。
大学に入ったころ
基礎演習、とかいう発表の練習をするような授業で
研究計画を発表するとき、
ほとんどのひとが「多角的に」研究をしたい、といいました。
(私はひねくれ者なので言いませんでしたw)
多角的にやろうとすることが重要なのではなく
ひとつのことを突き詰めたとき
「多角的」にならざるをえない。そういうものなのだと思います。
事実、彼がやりたいことを突き詰めていく中での記述は
非常に多彩な知識と記述からなっています。
願わくば、私もそうした研究をしていきたい。
そう思います。